2009年7月10日 (金)

江戸川土手から帝釈天へ 4. 「山本亭」、「真勝院」など

江戸川土手から帝釈天へ 4.として記述します。

☆「山本亭」、「真勝院」など

Img_7676 寅さん記念館のある柴又公園の南隣にあるのが、「山本亭」です。このImg_7687 Img_7692 建物は地元ゆかりの山本工場(カメラのImg_7693 部品製造)の創立者である山本 栄之助翁の自宅でした。関東大震災後当地に移り住み、以後四代にわたって使用されましImg_7707 たが、昭和63年(1988年)葛飾区の管理下に入りました。大正15年(1926Img_7708 年)から昭和5年(1930年)の間に数回の増改築を重ねた貴重な邸宅として、平成3年(1991年)4月から一般公開されています。

入り口になる長屋門から伝統的な書院造りの居室、唯一の洋間である「鳳凰の間」、当時使われた人力車、茶室や土蔵など見ることができます。主庭になる890平方メートルの書院づくり庭園には、400本の松やツツジが植えられています。一人100円の入場料を払わないとこの主庭は見られませんが、池のある藤棚など表側の庭は無料で見学できます。室内には、「カフェ山本亭」もあって、抹茶・ところてん・甘酒なども楽しめます。10畳・8畳・6畳の部屋と茶室は、葛飾区民に半日単位で貸し出されています。

Img_7717 さらに北に進むと、江戸川に近くに位置する川魚料理が自慢の料亭「川甚」があります。200年の暖簾を守り、鯉洗いや鯉こくが自慢です。数年前までは昼飯時には駐車場の空きを待つ観光バスが行列していましたが、この日は、観光客は少ないようでした。

Img_7718 さらに北に進み大通りを左折して、帝釈天の裏側にあたる場所にあるのが250年10代続く川魚料理の料亭「川千家」です。

Img_7724 道を挟んで北側にあるのが柴又七福神の弁財天を祀るImg_7723 「真勝院」です。この寺院には大きな鐘楼や五智如来像があり、大きな銀杏も見事です。   つづく

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2009年7月 9日 (木)

江戸川土手から帝釈天へ 3. 「寅さん記念館」、「映画『男はつらいよ』ほか

江戸川土手から帝釈天へ 3.として記述します。

☆「寅さん記念館」、「映画『男はつらいよ』」など

Img_7686 柴又公園内の東屋の奥の階段を下りると、「葛飾柴又 寅さん記念館」Img_7677 Img_7679 の吹き抜けの庭に入ります。この記念館は、「フーテンの寅」ことテキ屋稼業を生業とする車 寅次郎を演じた渥美 清(1928-1996年)の死後1年の1997年(平成9年)11月にオープンされました。葛飾区観光文化センターの運営ですが、名誉館長は、「男はつらいよ」を撮った山田 洋次監督だそうです。

Img_7678 公園の地下を利用した形で建てられた建物の、「光庭」と呼ばれる吹きImg_7681 Img_7685 抜けの庭には、映画「男はつらいよ」のロケ地を、焼付けタイルで地図化した「こころのふるさとマップ」が置かれています。この庭と隣の休憩室は、無料で利用できます。

500円の入場料を払い、館内に入ると、まさに「寅さんの世界」が展開されています。映画撮影現場のパネルやモニター、原寸大の「柴又帝釈天参道」や寅さんの実家の「くるまや」の内部、「寅さんのマドンナたち」と寅さんファンに喜ばれる展示が続きます。2009年1月には、開場12年足らずで、入場者300万人突破とのニュースが伝えられました。

映画「男はつらいよ」は、渥美清主演・山田洋次監督で、1969年8月から公開され、渥美清が亡くなる前の1995年公開の48編まで続きました。(他に特別編として、1997年12月公開の浅丘ルリ子がマドンナで沖縄県が舞台になった「寅次郎のハイビスカスの花」があります。)                       

この映画のマドンナ役には、昭和の時代に存在感のあった美人女優が多く起用されたとの評判でした。テキ屋稼業で日本全国(外国は24作のアメリカと41作のオーストリアのみ)を股にかけた寅さんの舞台とともに、次に列記してみます。マドンナ役にはならなかったものの、映画で一番存在感を示した女性は、柴又に住む寅さんの腹違いの妹 諏訪さくら役の倍賞千恵子だったはずです。

1.1969-8 光本幸子(京都府・奈良県) 2.1969-11 佐藤オリエ(京都府・三重県柘植) 3.1970-1 新珠三千代(三重県湯の山温泉・鹿児島県種子島) 4.1970-2 栗原小巻(愛知県名古屋市) 5.1970-8 長山藍子(千葉県浦安市・北海道札幌市と小樽市) 6.1971-1 若尾文子(長崎県長崎市と福江島・静岡県浜名湖) 7.1971-4 榊原るみ(新潟県越後広瀬・静岡県沼津市・青森県鯵ヶ沢町と弘前市) 8.1971-12 池内淳子(岡山県備中高粱) 9.1972-8 吉永小百合(石川県金沢市・福井県東尋坊) 10.1972-12 八千草薫(山梨県甲府市・長野県奈良井)

11.1973-8 浅丘ルリ子(北海道網走) 12.1973-12 岸惠子(熊本県天草と阿蘇・大分県別府) 13.1974-8 吉永小百合(島根県津和野と温泉津) 14.1974-12 十朱幸代(佐賀県唐津市・群馬県磯部温泉) 15.1975-8 浅丘ルリ子(青森県青森市・北海道函館市、長万部町、札幌市と小樽市) 16.1975-12 樫山文枝(山形県寒河江市・静岡県) 17.1976-7 太地喜和子(兵庫県龍野市) 18.1976-12 京マチ子(長野県別所温泉・新潟県六日町) 19.1977-8 真野響子(愛媛県大洲市) 20.1977-12 藤村志保(長崎県平戸島)

21.1978-8 木の実ナナ(熊本県田の原温泉) 22.1978-12 大原麗子(長野県木曽福島・静岡県大井川) 23.1979-8 桃井かおり(北海道支笏湖) 24.1979-12 香川京子(和歌山県・京都府・アメリカ合衆国アリゾナ州) 25.1980-8 浅丘ルリ子(沖縄県・長野県軽井沢) 26.1980-12 伊藤蘭(北海道奥尻島と江差町・徳島県) 27.1981-8 松坂慶子(大阪府・瀬戸内・長崎県対馬) 28.1981-12 音無美紀子(福岡県秋月・大分県夜明・静岡県焼津市) 29.1982-8 いしだあゆみ(京都府京都市と伊根・長野県信濃大町・神奈川県鎌倉市・滋賀県彦根市) 30.1982-12 田中裕子(大分県湯平温泉、別府鉄輪温泉と由布市)

31.1983-8 都はるみ(新潟県佐渡市と新潟市・支笏湖) 32.1983-12 竹下景子(岡山県備中高粱・広島県因島) 33.1984-8 中原理恵(岩手県盛岡市・北海道釧路市、根室市、中標津町と養老牛温泉) 34.1984-12 大原麗子(鹿児島県枕崎市と指宿市・茨城県牛久沼) 35.1985-8 樋口可南子(長崎県上五島と天草市・秋田県鹿角市)  36.1985-12 栗原小巻(静岡県下田・東京都式根島・静岡県浜名湖・福島県会津若松市) 37.1986-12 志穂美悦子(山口県萩市と下関市) 38.1987-8 竹下景子(北海道斜里町・岐阜県岐阜市) 39.1987-12 秋吉久美子(奈良県吉野・和歌山県・三重県志摩市と伊勢市二見町) 40.1988-12 三田佳子(長野県小諸市と松本市・長崎県島原市)

41.1989-8 竹下景子(オーストリアのウイーン・オランダのアムステルダム スキポール空港・宮城県松島・石川県) 42.1989-12 後藤久美子(佐賀県佐賀市、古湯温泉と吉野ヶ里・茨城県袋田) 43.1990-12 後藤久美子(大分県日田市・愛知県名古屋市)   44.1991-12 後藤久美子(鳥取県・岐阜県奥恵那峡と蛭川) 45.1992-12 後藤久美子(宮崎県油津・岐阜県下呂温泉) 46.1993-12 松坂慶子(香川県琴平、志々島と高見島・栃木県烏山) 47.1994-12 かたせ梨乃(新潟県上越市・滋賀県長浜と西浅井町・神奈川県鎌倉市・長崎県雲仙) 48.1995-12 浅丘ルリ子(鹿児島県奄美大島・岡山県滝尾と津山・兵庫県神戸市) 「特別」1997-12 浅丘ルリ子(沖縄県)

渥美清は、死後「国民栄誉賞」を受賞しました。1984年に亡くなった長谷川一夫に次いで、映画人としては二人目とのことです。   つづく

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2009年7月 8日 (水)

江戸川土手から帝釈天へ 2. 「柴又グラウンド」、「矢切の渡し」、「柴又公園」など

江戸川土手から帝釈天へ 2.として記述します。

☆「柴又グラウンド」、「矢切の渡し」、「柴又公園」など

Img_7663 とんがり屋根の取水塔を過ぎて、左側の江戸川沿いには、釣り人が竿をImg_7672 たれているのが望見できます。手前側の江戸川河川敷には柴又ピクニック広場に続いて、6面の野球場を持つ「葛飾区立柴又グラウンド」があります。週末は、たいへん賑わう場所です。

Img_7666 さらに進むと、広大な「葛飾区立 柴又公園」がはじまります。気がつくと土手を下りて「矢切の渡し」に向かう道にサイケデリックな模様を描いたトImg_7669 Img_7670 イレがありました。このあたりは、トイレのImg_7668 数が少ないので、人の集まる時間は要注意です。

矢切の渡しは、都内に残る唯一の「渡し」で、寛永8年(1631年)に江戸幕府が関東代官を管理者として始めました。現在は、千葉県松戸市と葛飾区矢切をむすぶ渡しで、乗船料は、大人・片道が100円です。1983年に、つれて逃げてよ♪♪ついておいでよ♪♪の作詞 石本美由紀、作曲 船村徹の「矢切の渡し」を細川たかし が歌ってレコード大賞をとったことで、全国的に有名になりました。

乗り場は、昔ながらの素朴な形を維持していて、木の桟橋を利用して乗船します。昔と変わったところといえば、歌の記念碑ができたことぐらいです。

Img_7667 矢切の渡しから、葛飾区観光文化センターが管理する「葛飾柴又 寅さImg_7674 Img_7689 ん記念館」まで南へ約400mを歩きます。河川敷と土手を上って、記念館を取り巻く東屋を含む日本庭園あたりまでの広大な場所が「柴又公園」です。   つづく

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2009年7月 7日 (火)

江戸川土手から帝釈天へ 1. 「JR金町駅」、「金町浄水場」、「取水塔」など

江戸川土手から帝釈天へ 1.として記述します。

☆「JR金町駅」、「金町浄水場」、「取水塔」など

案内書(JTBパブリッシング発行「東京 下町・山手ウオーキング」)によれば、次のコースは、「江戸川土手から帝釈天へ」です。中見出しは「懐かし日本映画」、小見出しは「『男はつらいよ』のロケ地。帝釈天、江戸川土手へ」です。

Img_7653 7月3日(金)は、「JR金町駅」から始まります。この駅はJRの常磐線の駅として、明治30年(1897年)に開通しています。利用客数はあまり多くなく、今でも一日、4.4万人足らずです。

Img_7654 帝釈天に向かう京成電鉄の金町線とは、正確にいえば乗り入れてはいません。50mほど離れています。金町線は全長わずか2.5kmで、駅は「京成金町」・「柴又(帝釈天参詣で降りる駅)」・「京成高砂」の3つのみです。この金町線の歴史は古く、「帝釈人車鉄道」が経営しており、明治Img_7656 32年(1899年)から大正元年(1912年)まで金町ー柴又間を法被姿の押夫が人車を押して参詣客を運んでいました。帝釈天の縁日である庚申の日は、一日一万人以上運んでいたとの記録もあるそうです。京成電鉄に経営が移った今でも、この線は単線です。

Img_7661 案内書によると、今回は鉄道を利用せずに江戸川沿いを歩きながら、帝Img_7664 釈天に向かいます。まず、線路沿いの柴又街道を500mほど南に進みますと、「東京都水道局 金町浄水場」がありますので、左折して江戸川に向かいます。この浄水場は、大正15年(1926年)完成した江戸川の表流水から取水する浄水場です。取水した水は主として東京都の墨東6区に給水されます。昭和40年代はカビ臭い低品質の水との評判でしたが、平成4年(1992年)から導入された「高度浄水施設(オゾン処理)」により水質が改善されました。現在では、「東京で一番おいしい水」との評価を得ているそうです。

Img_7659_2 江戸川土手に上ります。土手はサイクリング・コースを兼ねた江戸川をImg_7657 Img_7662 見下ろせる散歩道ですので、南の帝釈天方面に向けて歩きます。左側に見える「とんがり帽子の取水塔」が二つ見えます。これら二つの取水塔で、日量52万立方メートルの処理能力があるそうです。右側には、広大な浄水場施設が見渡せます。   つづく

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2009年7月 6日 (月)

新宿駅から都電跡を抜弁天へ 5. 「西向天神社」、「抜弁天」、若松河田駅」など

新宿駅から都電跡を抜弁天へ 5.として記述します。

☆「西向天神社」、「抜弁天」、「若松河田駅」など

Img_7637 新宿文化センターの先に天神小がありますが、小学校の先を右折し、すImg_7639 ぐに左折した道の坂上にあるのが「西向天神社」です。永Img_7640 井荷風の著書「日和下駄」の中にこの神社の夕日の美しさを称える記述があります。鎌倉時代に京都栂尾の名僧 明恵が創建し、東大久保村の鎮守社として崇められました。社殿は西を向いています。室町時代に太田 道灌が田地を寄進した縁もあって、山吹伝説の残る山吹坂もあります。Img_7646 奥には、大聖院もありました。

Img_7647 神社の東側には、新宿山ノ手七福神の一つ寿老神を祀る「法善寺」があります。この寺は新宿区指定文化財の極彩色の「七面明神像」が安置されています。

職安通りの延長線となる抜弁天通りが交わる三差路の東Img_7643 南の角に位置するのが「抜弁天」と呼ばれる「厳島神社」です。「抜弁天(ぬけべんてん)」の名は、三差路に位置する参道を南北に通り抜けられImg_7645 ることと、この神社に参拝すると苦難を切り抜けられることとの二つの意味に由来するものです。新宿山ノ手七福神の弁財天を祀る神社ですので、小さな「龍の池」もありました。

地域一帯の名称にもなっている「抜弁天」なので、広大な境内をもつ神社を想像しましたが、こじんまりした神社でした。その昔はこの地は鎌倉街道が通っていて、源義家が祈願した厳島神社がありました。その後、貞享2年(1685年)の徳川綱吉の「生類憐みの令」が出て以降はこの付近に2万5千坪の犬小屋が設けられ、1695年には42,000頭の野犬が収容された記録もあります。

Img_7651 抜弁天通りを西に向かい警視庁第八機動隊の本部を左手に見て500mも進みますと、都営地下鉄大江戸線の「若松河田駅」があります。2000年の12月に開業しました。最近のこの駅の利用客は、一日2.7万人弱といわれています。

Img_7648 この駅のすぐ手前の右側に、礼法の宗家であった「旧小笠原伯爵邸」がImg_7650 あります。昭和2年(1927年)に建てられたスペイン様式の鉄筋コンクリート造りの地上2階の建物です。一時は東京都の所有になりましたが、2002年からは私企業により予約制のレストラン「小笠原伯爵邸」として運営されています。

この項終わり。   つづく

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2009年7月 3日 (金)

新宿駅から都電跡を抜弁天へ 4.「成覚寺」「せいろう蒸し料理店かこみ」、「新宿文化センター」など

新宿駅から都電跡を抜弁天へ 4.として記述します。

☆「成覚寺」、「せいろう蒸し料理店かこみ」、「新宿文化センター」など

高遠藩内藤家の菩提寺でもある太宗寺の後は、東京メトロ丸の内線の「新宿御苑駅」の西側の通りから北に向かい、再度靖国通りに向かいます。西側の細い道に面して、「成覚寺」と「正受院」があります。

Img_7611 成覚寺は、内藤新宿の飯盛り女(江戸時代に宿場の宿屋に居て、客のImg_7612 Img_7613 給仕をした女性で、娼婦をかねていた)の投げ込み寺でした。共葬墓地に葬られた飯盛り女たちを弔う「子供合埋碑」や心中した男女らを供養するための旭地蔵など、内藤新宿繁栄の裏面を伝える文化財も多く残っているといわれます。また、江戸時代の戯作者(黄表紙や洒落本など娯楽小説類の作家)恋川 春町の墓もあります。

Img_7614 隣接する正受院は、先にも記述した閻魔大王に仕える奪衣婆信仰の「奪Img_7615 衣婆像」があります。嘉永元年(1848年)に評判になり、参詣客が押し寄せる騒ぎもあったようです。この寺の奪衣婆像を題材にして、たくさんの錦絵が描かれたそうです。

また、靖国通りを横切って、真北にある「天神小学校南」Img_7632 Img_7631 に向かいます。靖国通りに面して面白い料理店がありました。玄海の1階にある「せいろう蒸し かこみ」です。惣菜が9種類ついた定食や、炭焼きの鶏料理などに若い女性の人気が集まっていました。

Img_7634 200mほど北に進むと天神小南ですが、ファミリーマートのところで左折しImg_7635 て100mも進みます。セブンイレブンのところを右折して北に200mも道なりに進むと「文化センター通り」に入り込みます。100mほど先の右側が「新宿文化センター」です。この文化センター通りが、先に歩いた四季の道につながる「都電の通っていた線路跡」でもあります。新宿文化センターは、昔の「都電の大久保車庫」のあった場所なのです。文化センターは、1979年に完成した複合文化施設で、大・小各ホールやリハーサル室・会議室・展示室・レストランなどがあります。2008年4月に改修工事が行われました。1802席ある大ホールでは、コンサートなども開催されます。   つづく

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2009年7月 2日 (木)

新宿駅から都電跡を抜弁天へ 3. 「花園万頭」、「太宗寺」など

新宿駅から都電跡を抜弁天へ 3.として記述します。

☆「花園万頭」、「太宗寺」など

Img_7608 花園神社の門前東側で、明治通りと御苑通りの間に「花園万頭」という和Img_7609 菓子屋があります。万と頭の組み合わせですが、まんじゅうと読みます。江戸時代に茶道の盛んな金沢で創業し、明治時代に東京に進出した老舗です。銘菓の「花園万頭」のほか、「ぬれ甘なっと」に人気があります。

Img_7610 つぎに左側に「パークシティー・イセタン 1」を左側に見て、御苑通りを南に向かいます。靖国通りを横切りampmというスーパーを過ぎて、250mも進み左折して新宿通りを300mほど進むと小路の突き当たりに「太宗寺」があります。(東京メトロ丸の内線の「新宿御苑前駅」のすぐ近く)先に「内藤新宿」について記述しましたが、この寺は当時新宿御苑一帯に下屋敷Img_7617 を構えていた高遠藩主の内藤家の菩提寺です。慶長元年(1596年)太宗Img_7618 Img_7619 Img_7621 という名の僧侶が建てた「太宗庵」が前身ですが、内藤家の五代 正勝逝去後にこの地に太宗寺が建立されました。

Img_7622 太宗寺にはたくさんの文化財が祀られています。たまたま出会った年配Img_7624 Img_7625 の婦人がいろいろと案内してくれました。「銅像地蔵菩薩坐像」は、像高267cmで「江戸六地蔵」の3番目として正徳2年(1712年)造られました。日本一大きいといわれる「閻魔像」は、木造で像高550cm、文化11年(1814年)に安置されました。明治3年(1870年)の製作といわれる「奪衣婆像(だつえばぞう)」は、閻魔大王に仕える奪衣婆が、三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆といわれ、そうなりたくない妓楼の人たちの信仰をあつめたといわれます。

昭和27年(1952年)に、内藤家の墓所から発見されたという「切支丹灯籠」や、明治時代に彫られた不動明王の立像である194cmの「三日月不動像」や、新宿・山ノ手七福神の「布袋坐像」のほか「塩かけ地蔵」などもありました。

慶長9年(1604年)江戸幕府によって日本橋が五街道の起点として定められましたが、甲州街道だけは高井戸宿が日本橋から約4里と遠く離れていたために、不便だったようです。そこで、浅草阿部川町の名主高松喜六など5名が、1697年に新しい宿場開設を願い出て元禄12年(1699年)に「内藤新宿」の開設が許可されました。

開設の冥加金は5600両という莫大なものでした。ただし、享保3年(1718年)には、風紀取締りという観点から内藤新宿は一時廃止されました。途中、内藤新宿再開の審議は何度も行われましたが、実際に再開されたのは明和9年(1772年)でした。その後の発展が今日の新宿の発展につながるわけです。   つづく

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2009年7月 1日 (水)

新宿駅から都電跡を抜弁天へ 2. 「新宿遊歩道公園」、「新宿ゴールデン街」、「花園神社」など

新宿駅から都電跡を抜弁天へ 2.として記述します。

☆「新宿遊歩道公園」、「新宿ゴールデン街」、「花園神社」など

Img_7588 都電が走っていた道が四季の道と呼ばれる「新宿遊歩道公園」に変わっImg_7589 Img_7592 たのは、昭和49年(1974年)のことです。Img_7594 新宿区役所の東南の靖国通りから入ると、石畳の続く細長い遊歩道です。遊歩道の両脇にはツバキ、ヒイラギ、ナンテンなど四季折々に咲く花が多いので、四季の道と呼ばれるようです。緑も多く、メタセコイヤなどの落葉高木もたくさん植えられています。この遊歩道の終わりは新宿6丁目になりますので、この界隈で働く人たちの通勤路にもなっていて、かなり賑わう歩道です。敷地の総面積は、699坪です。

Img_7590 遊歩道の東側には、「新宿ゴールデン街」が隣接していますので、面白い街づくりになっています。昼間にゴールデン街を覗いても賑わいは感じられませんが、5坪未満の広さの飲み屋が密集している地域です。1950年ごろ、新宿駅東口にあった闇市を撤去した際に、代替地になったのが、ゴールデン街の始まりです。1958年に「ゴールデン街」と名を変え、3種のバー(文壇バー、オカマバーとボッタクリ・バー)で賑わう歓楽街として有名になりました。今でも1950年代の雰囲気を残す場所として親しまれているようです。

Img_7602 ゴールデン街の南側に位置するのが元禄12年(1699年)の「内藤新宿」とImg_7596 Img_7597 Img_7605 いう宿場の開設以来、「新宿総鎮守」と崇められている「花園神社」です。神社自体は家康が江戸に入った1590年には存在していて、大和吉野山からの勧請と伝えられています。土地柄から水商売の人たちの信仰が厚い神社といわれています。また、芸能や演劇に理解のある片山文彦宮司の影響もあって、境内には「雷電稲荷神社」や「大鳥神社」とならんで「芸能浅間神社」も祀られています。芸能浅間神社の前には藤 圭子の1970年のヒット曲「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑も置かれていました。   つづく

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2009年6月30日 (火)

新宿駅から都電跡を抜弁天へ 1. 「新宿駅」、「新宿アルタ」、「四季の路」など

新宿駅から都電跡を抜弁天へ 1.として記述します。

☆「新宿駅」、「新宿アルタ」、「四季の路」など

案内書(JTBパブリッシング発行「東京 下町・山手ウオーキング」)によれば、次のコースは、「新宿駅から都電跡を抜弁天へ」です。中見出しは「廃線跡を歩く」、小見出しは「都電の廃線跡をたどり、新宿に残る神社仏閣を散策」です。

Img_7573 6月25日(木)は、「新宿駅東口」から始まります。1991年に東京都庁が丸の内から新宿に移った頃から、新宿は「副都心」というよりも「新都心」と呼ぶ方がふさわしい人の流れになりました。最近の新宿駅の乗降者数は一日平均364万人以上となっていて、ギネス・ブックが認める世界一の規模の駅になっています。利用状況の詳細は、JR東日本76.6万人、小田急49.2万人、京王電鉄74.9万人、都営新宿線26.3万人、都営大江戸線13.1万人、東京メトロ丸の内線23.2万人などとなっています。

JR東日本の駅は、明治18年(1885年)、京王電鉄の駅は大正15年(1915年)、小田急の駅は昭和2年(1927年)から開業しています。

Img_7576 JR新宿駅を出て振り返ると「ルミネエスト新宿」というショッピング・モールImg_7575 です。北に向かいますが靖国通りの手前右側に「新宿アルタ」があります。昔は二幸のあった場所ですが現在は三越の運営するテナント・ビルで、主に若い女性層向けの衣料、雑貨、ファースト・フード、コンビニエンス・ストアが入っているビルです。7回の「スタジオ・アルタ」は、人気番組の「笑っていいとも!」の生放送が行われることでも知られています。

Img_7578 北の靖国通りを横切って200mも進むと、「旧 コマ劇場」です。昭和31年Img_7581 Img_7580 (1956年)に、阪急阪神東宝グループの(株)コマ・スタジアムが運営していましたが、施設の老朽化もあって、2008年12月に閉館しました。「演歌の殿堂」として親しまれ、北島三郎・小林幸子・氷川きよし・松平健などの人気を支えました。現在は東宝主導で再開発事業が行われています。

Img_7584 コマ劇場から東に向かうと「新宿区役所」があります。むかしは風俗嬢がImg_7585 Img_7586 立ち並ぶことで、知られましたが、現在は普通の街です。区役所前から靖国通りに戻ると、左側に昔の都電通りであった場所を「新宿遊歩道公園」とも呼ばれる「四季の路」がありますので、道なりに進みます。   つづく

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2009年6月29日 (月)

亀戸から都電廃線跡を東大島へ 6. 「亀小橋」、「浅間神社」、「東大島駅」など

亀戸から都電廃線跡を東大島へ 6.として記述します。

☆「亀小橋」、「浅間神社」、「東大島駅」など

Img_7552 荒川べりを北に歩き、首都高速7号小松川線が見えたら高速道路の下をImg_7551 Img_7554 くぐって左折します。小松川第二小学校をImg_7555 左に見て進みますと、左側に「小松川さくらホール」があり、先の広場には「世代を結ぶ平和の像」が置かれています。Img_7556 第二次世界大戦時の「東京大空襲」の江戸川区の犠牲者を弔う目的で造られたものです。新しく避難時の備えとして、大島小松川公園建設に力を入れた理由が分かります。旧中川べりには、「史蹟逆井の渡し跡」が門前にある「小松川神社」もありました。

Img_7558 旧中川を渡り、西に向かう橋が「亀小橋」です。亀小橋という名前は、亀戸と小松川を結ぶ橋という意味で付けられたようです。昭和43年(1968年)までは、都電が走っていて、路面電車専用の橋が架かっていました。

Img_7563 亀小橋を渡って150mも進むと、大永7年(1527年)創立のImg_7562 「浅間神社」があります。この建物は、安Img_7565 政2年(1855年)の大地震で社殿が倒壊し、明治11年(1878年)富士山から溶岩を運んで富士塚を築き、再建されたものです。戦前の姿を残す貴重な木造建築といわれています。境内には大正7年(1918年)建立の石造の鳥居があるほか、都電の前身の城東電車時代のレールが飾られています。奥には六つ目地蔵も祀られていました。

Img_7570 浅間神社の先を左折して南へ1000mも進むと、都営新宿線の「東大島駅」になります。昭和53年(1978年)に開業し、最近の一日の利用客は約3万人です。「江東区と江戸川区の区境の河川橋上駅、ホームに行政区分標がある全国でも珍しい駅」として、2000年に「関東の駅百選」に選ばれています。なお、駅長室の所在地は、江東区大島9丁目だそうです。

この項終わり。

つづく

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2009年6月26日 (金)

亀戸から都電廃線跡を東大島へ 5. 「さくら大橋」、「もみじ大橋」、「大島小松川公園」など

亀戸から都電廃線跡を東大島へ 5.として記述します。

☆「さくら大橋」、「もみじ大橋」、「大島小松川公園」など

Img_7536 わんさか広場の後は、旧中川の西側べりを歩いて、北に向かいます。途Img_7540 Img_7545 中、都営新宿線の「東大島駅」の下を通ります。新大橋通りを過ぎると先に見えるのが「さくら大橋」です。さらに100mほど先には「もみじ大橋」が架かっています。両大橋とも人と自転車だけを通す道になっています。これらの橋を渡ると24.5万平方メートルと広大な東京都立の「大島小松川公園」に入ります。人だけを通す道ですが、災害時には20万人の避難広場になることを考えた幅が20m以上の大きな橋であることに驚かされました。

Img_7546 この公園には、テニス・コート4面(照明付)、小野球場3面(うち2面は照Img_7548 Img_7549 明付)、小サッカー場1面(照明付)、「自由の広場(バーベキューとアスレティック広場)」、「季節の広場」、「風の広場(芝生の丘、展望の丘、ジョギング・コースなど)」や少年運動広場などがあります。この公園の所在地は江戸川区です。先に通った「わんさか広場」は、江東区に位置しますが、この広大な公園の一部をなしています。

この公園建設は、東京都の事業で、平成9年(1997年)に完成しました。平常時にはレクリエーションの場として利用されますが、災害時には避難広場として活用することを意識してImg_7550 江東のデルタ地域東端の場所を防災市街地開発したものです。関東大震災や第二次世界大戦時の東京空襲の被害から学んだ智恵が生かされていて、嬉しい気持ちになりました。

大島小松川公園の東端は、いわゆる「荒川土手」で、荒川に面しています。   つづく

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2009年6月25日 (木)

亀戸から都電廃線跡を東大島へ 4. 「宝塔寺」、「中川船番所資料館」、「わんさか広場」ほか

亀戸から都電廃線跡を東大島へ 4.として記述します。

☆「宝塔寺」、「中川船番所資料館」、「わんさか広場」など

Img_7520 仙台堀川公園から小名木川に架かる「塩の道橋」を戻り、ふたたび「しおImg_7521 Img_7522 のみち」を東に400mほど進みます。気持Img_7523 ちの良い散歩道です。右側に「番所橋」が見えたら左側の普通道路に上り、150mほど戻ります。右にあるのが「宝塔寺」です。ここは真言宗・智山派の寺で、慶長15年(1610年)に設立されました。境内には「塩舐め地蔵」、「丸彫り石仏」、「六地蔵」などが祀られています。徳川三代将軍の家光も訪問したことのある由緒ある寺です。江戸時代に江戸市内に塩を売りに行く行商人が一握りの塩を必ず地蔵尊に供えました。塩をイボに塗ると取れるので、「いぼ取り地蔵」とも呼ばれています。

Img_7524 宝塔寺の前を右折して、最初の通りを右折すると旧中川の手前に「中川Img_7527 船番所資料館」があります。江戸時代に船を取り締まる町奉行所があった場所です。昔の面影を残す広場と、この資料館で、船番所が置かれるほど重要拠点であったことが分かります。旧中川には今は「中川大橋」が架けられて、小松川につながります。

Img_7530 この資料館は、東京都の「ぐるっとパス」の対象ミュージアムになっていまImg_7532 すので、何度か訪れていますが、小名木川経由だと印象Img_7533 がかなり変わってきます。中川番所を再現するジオラマ(幻視画。風景画の中に物を置き、これに照明を当てて、立体的に見えるようにした装置)は、いつ来ても楽しめます。資料館には海運関係の資料のほか、釣具や和竿の歴史のほか竿師の系譜のパネルも置かれています。

Img_7535 資料館の北側には広大な公園の「わんさか広場」があります。この広場は、東京都立公園の「大島小松川公園」の施設の一部です。災害に強い街づくりで生まれた、憩いの公園といわれています。   つづく

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2009年6月24日 (水)

亀戸から都電廃線跡を東大島へ 3. 「しおのみち」、「大島稲荷神社」、「仙台堀川公園」など

亀戸から都電廃線跡を東大島へ 3.として記述します。

☆「しおのみち」、「大島稲荷神社」、「仙台堀川公園」など

Img_7499 進開橋を渡らずに、左折して小名木川べりを東に1kmほど歩き、川に面Img_7501 している「大島稲荷神社」に向かいます。川の南北両側に高層の住宅群が続くのに驚かされます。途中の左側に大島中学などがありました。少子化で小・中学生数が減少するのが東京都の一般的な傾向ですが、この地域は小・中学生の増加にどう対処するか頭を悩ませているとの話も聞きます。

Img_7503 稲荷神社に着く少し手前から2007年にできたばかりの堤の内側の「しおImg_7518 Img_7519 のみち」という遊歩道があります。対岸(川の南側)にも同じような遊歩道があります。江戸時代に行徳の塩を運ぶために掘られた小名木川に因んで名づけられたようです。このあたりは護岸が高く、川が近くても水面が見えなかったのが、この遊歩道で川を身近に感じることができるようになりました。護岸の見事な石積みや柳の木など、江戸情緒もたっぷりです。

Img_7509 川の左側にある「大島稲荷神社(通称「大島神社」)は、江戸時代の慶安Img_7508 Img_7511 年間に、当時海に近かった小名木川はたびたびの津波の被害が大きく、山城の国「伏見稲荷大社」から分霊を奉遷したことがはじまりです。厄除け・出世開運の神として拝められてきました。

この神社をさらに有名にしているのが、松尾芭蕉像と芭蕉作の「秋に添いて 行はや末は小松川」の句碑が置かれている神社だからです。奥の細道の旅に出る直前に、芭蕉がこの神社を参拝し、小名木川に船を浮かべて詠んだ句といわれています。この境内には「開運牛」の像も置かれ、佐竹神社も祀られています。

Img_7515 しおのみちに戻り、先に進むと人と自転車のみの通れる「塩の道橋」が Img_7517 あります。対岸に渡ると、「仙台堀川公園」があります。仙台堀川の流れるこの一帯は、工場などによる地下水の汲み上げにより地盤沈下が甚だしく、ゼロメートル地帯になり、護岸壁を高くすることで水の被害を防いでいました。この問題を一挙に解決するために、川を埋め立てて、そのスペースを公園化する計画が進み、8年がかりの工事は1986年に完成しました。総延長3700メートル、面積は約10.4万平方メートルです。さらに奥に隣接して「横十間川親水公園」も1984年に完成しています。こちらの公園は既存の川を生かしながら造った親水公園です。総延長1970メートル、面積は約5.1万平方メートルです。

大規模な住宅団地がつぎつぎに建っていますが、新住民にも喜ばれそうな広大な公園でした。   つづく

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2009年6月23日 (火)

亀戸から都電廃線跡を東大島へ 2. 「大島緑道公園」、「竪川人道橋」、「小名木川」など

亀戸から都電廃線跡を東大島へ 2.として記述します。

☆「大島緑道公園」、「堅川人道橋」、「小名木川」など

Img_7490 亀戸緑道公園の南の端が「竪川(たてかわ)人道橋」です。この橋の手前Img_7488 Img_7485 には都電の車輪が軌道の上に並べられ、車止めとともに展示されています。水神森と大島間の開通に合わせて大正2年(1913年)路面電車の専用橋として架設されました。29と38の数字のある石碑がImg_7491 置かれていますが、ここを走っていた「29系統」と「38系統」の都電のモニImg_7493 ュメントでした。

Img_7494 Img_7495 この橋から南側の進開橋の手前で西側の明治通りに抜けるまでが、かつての都電の進路と同じで、大島緑道公園です。この公園は緑が多く野鳥の多い場所でもあります。ヒヨドリ・ムクドリ・キジバト・ツグミ・シジュウカラ・スズメ・ハクセキレイ・オナガ・カワラヒワなどが生息しています。

Img_7496 途中、左側に城東郵便局もありました。案内書に従えば進開橋は渡りまImg_7497 せんが、「小名木川」の流れを眺めるために橋上に立ってみました。小名木川は、川幅が10間足らずの人口河川です。1590年ごろ徳川家康が小名木 四郎兵衛に命じて開削させた運河です。旧中川から隅田川を結ぶ運河で、千葉県行徳で作られた塩や、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の米などを運び物流の面での貢献は大きいものでした。現在では物流面での重要性は下がっていますが、地震などの地域の災害発生時に備える安全弁としては貴重な存在と思われます。   つづく

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2009年6月22日 (月)

亀戸から都電廃線跡を東大島へ 1. 「亀戸駅」、「サンストリート」、「亀戸緑道公園」など

亀戸から都電廃線跡を東大島へ 1.として記述します。

☆「亀戸駅」、「サンストリート」、「亀戸緑道公園」など

次の散歩道は案内書(JTBパブリッシング発行「東京 下町・山手ウオーキング」)によれば、「亀戸から都電廃線跡を東大島へ」です。中見出しは「廃線跡を歩く」、小見出しは「都電の廃線跡をたどり 広大な大島小松川公園を散策」です。

Img_7476 6月19日(金)は、「亀戸駅東口」から始まります。この駅はJR総武本線の駅として明治27年(1894年)12月に開設されました。東武線亀戸線(曳舟駅につながる)の駅も明治37年(1904年)には、開設されています。最近の一日の利用客はそれぞれ5.7万人弱と2.8万人弱です。

亀戸天神のある北口は、降りる機会はありますが、東口は縁の薄いところでした。京葉道路からすぐの場所にありますが、見落としそうな地味な乗降口です。

Img_7477 京葉道路を渡って南に向かえば、すぐに「亀戸緑道公園」の入り口になりImg_7481 ます。左側にはエンゼルのブロンド像も置かれています。高度成長にともなう交通渋滞対策として東京都の路面電車(都電)が次々と廃止される中、亀戸から大島に向かう路線は昭和47年(1972年)という遅い時期まで運行されていました。

Img_7484_2 このあたりの路線は、大正時代は城東電気軌道という私鉄に運営されてImg_7483_2 いましたが、昭和初期の合併で、都電の路線に組み込まImg_7482_2 れたという歴史もあります。「廃線跡」という漢字から受ける印象とは全く異なり、いまは桜並木が続く気持ちの良い緑道です。清掃は町内会が行うとのこと、掃除も行き届いています。基本的には歩行者専用道路で、自転車も通らない人にやさしい散歩道です。亀戸緑道公園は、堅川人道橋までの300mだけですが、橋から南への600mも同じく人にやさしい散歩道で、名称だけが「大島緑道公園」に変わります。

Img_7478_2 京葉道路に面して、左側(東側)の二階建てのショッピング・モールが「SUN STREET」です。ストリートという名称から通りを連想しますが、1997Img_7479_2 Img_7480 年に開店したブラブラ歩きを楽しめる市場という意味のランブリング・マーケットです。コンセプトは、広場・道・テラス・緑などのパブリック空間を充実させ、誰もがどこからでも気軽に立ち寄ることができるようにすることのようです。建物を高層化しない理由でもあるそうです。   つづく

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2009年6月19日 (金)

新橋から鉄道発祥地を築地へ 5. 「波除神社」、「勝鬨橋」、「築地本願寺」など

新橋から鉄道発祥地を築地まで 5.として記述します。

☆「波除神社」、「勝鬨橋」、「築地本願寺」など

Img_7459 築地場外市場の道を突き当りまで、東南方向へ真っ直ぐ進むと「波除神Img_7461 Img_7463 社」があります。江戸時代の初めに築地Img_7464 一帯は一面の海で、埋め立て工事が始まったばかりでした。波風の影響を受けて苦渋の難工事でしたが、萬治2年(1659年)海面を漂っていた稲荷大神の御神体を引き上げたところ、波風がピタリと止んだことから祀られた神社です。今年は、「御遷座350年祭のつきじ獅子祭」も行われます。

境内には右側に「弁財天お歯黒獅子(雌獅子)」、正面に「社宝・金獅子(雄獅子で文化財)」が安置されています。奥には築地の魚市場らしく、「すし塚」、「海老塚」、「鮟鱇塚」、「活魚塚」なども祀られていました。

Img_7466 右折して晴海通りに突き当たったら、右折して「勝鬨橋」に向かいます。橋の手前の右側に(築地市場勝どき門横)に魚に関する資料を集めた(財)水産物市場改善協会の運営する入館無料の「おさかな普及センター資料館」があります。

Img_7468 さらに橋の近くには、2005年5月に開設された勝鬨橋に関することなら何でも知ることができる「かちどき橋の資料館」があります。事前に申し込めば、無料の「橋脚見学ツアー」にも参加できるそうです。あらためて、勝鬨橋を眺めて、晴海通りを銀座方面に引き返します。

Img_7469 勝鬨橋から500m近く歩いたら、右側に通称築地本願寺の「本願寺築地Img_7471 別院」があります。京都市にある西本願寺の別院です。正式名称は、浄土真宗本願寺派本願寺築地別院だそうです。築地本願寺は江戸時代の1617年に浅草近くの横山町に建立されましたが、明暦の大火で被災し、1679年にこの地に再建されました。当時は、「築地御坊」と呼ばれました。

現在の古代インド様式(天竺様式)の伽藍は、東京帝国大学の伊東 忠太教授による設計で、1934年に完成しました。衆水一味浄と書かれた水場もありました。さらに400mも銀Img_7474 座よりに進むと、一年ほどで改築工事が始まる「歌舞伎座」です。そして、Img_7475 隣接するのが「地下鉄の東銀座駅」です。現在都営地下鉄浅草線と東京メトロ日比谷線が乗り入れています。開業は昭和38年(1963年)2月で、最近の一日の利用客はそれぞれ7.3万人弱と7.9万人弱です。この項終わり。

つづく

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2009年6月18日 (木)

新橋から鉄道発祥地を築地へ 4. 「朝日新聞社」、「水神社」、「築地場外市場」ほか

新橋から鉄道発祥地を築地へ 4.として記述します。

☆「朝日新聞社」、「水神社」、「築地場外市場」ほか

Img_7446 銀座に残る踏切信号機のある通りを、東に向かうと朝日新聞社に着きます。この道は緩やかにカーブしていますが、線路が敷かれていた場所です。汐留駅に到着した鮮魚列車は、この線路を通って東にある「東京卸売市場 築地市場」に向かっていました。昭和59年(1984年)1月にその使命を終えてしまいました。

Img_7447 道は朝日ホールを経て、「朝日新聞社」脇につながります。朝日新聞のImg_7448 東京本社がこの地に新築移転したのは昭和55年(1980Img_7449 年)11月のことです。この時に鉛活字を使わない「電算写植新聞制作システム ネルソン」を導入したといわれます。朝日新聞社の正門が面している通称「新大橋通り」を真っ直ぐ北東に進むと右側が「築地市場」になります。一日約3400トンの魚や野菜を扱う大市場も、午後になると閑散とした空間に変わってしまいます。

Img_7451 この閑散としている市場の東側の奥にある「水神社の遥拝所」を訪ねました。Img_7452 Img_7453 この神社は、日本橋魚市場が始まった頃に、大漁と海上安全と徳川家の安泰を祈って、建立されました。明治34年(1901年)から、この地に移されました。毎月五日に参拝の神事は欠かさず行われてい るそうです。

新大橋通りに戻って先に進むと、右側に午後になってもまだ賑わっている「築地場外市Img_7455_2 場」があります。330軒の店舗があるようですが、早朝に築地市場で仕入Img_7457_2 Img_7456_2 れた新鮮な野菜や鮮魚を小売して個人客に対応しています。新鮮さと割安の値づけが人気の秘密です。

つづく

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2009年6月17日 (水)

新橋から鉄道発祥地を築地へ 3. 「浜離宮恩賜庭園」、「銀座に残る踏切信号機」など

新橋から鉄道発祥地を築地へ 3. として記述します。

☆「浜離宮恩賜庭園」、「銀座に残る踏切信号機」など

Img_7425 つぎは高層ビルのカレッサ汐留の南東約200mに位置する「浜離宮恩賜Img_7426 Img_7428 庭園」の大手門に向かいます。

大手門から北に歩きますと、藤棚や菖蒲が咲いている花木園や、庚申堂鴨場があります。さらに進むと潮の干満によって水Img_7430 位が変化する広大な「潮入の池(大泉水)」が出会います。お伝い橋・小Img_7432 Img_7435 の字島を渡ると中島です。中島にある「中島の御茶屋」は、この庭園の名所で、宝永4年(1707年)に造られました。将軍はじめ御台様、公家たちが、ここで見飽きぬ眺望を満喫したといわれています。西側Img_7440 には小高い丘の「新樋の口山」があります。敷地の北側の外れには、築Img_7442 地川に面して浅草・両国・お台場などに向かう「水上バス」が運行していました。

さらに進んで大手門に戻りますが、手前には牡丹園やお花畑があり、六代将軍の家宣が庭園大改修の折に植えたといわれる「三百年松」もありました。太い枝が低く張り出し、いまもなお堂々たる姿です。

この庭園は、もともとは徳川将軍家の鷹狩り場として承応3年(1654年)に造られ、その後将軍家の別邸として、「浜御殿」と呼ばれました。明治維新の後は皇室の離宮になりました。昭和20年(1945年)11月に東京都に下賜され、一般公開されるようになります。入場料250円を払っても価値ある庭園です。

Img_7444 大手門からもう一度カレッタ汐留に戻るよう進み、高速都心環状線・海岸Img_7445 通りの手前の高速道路に沿った道を右折(銀座郵便局方向)して約100mのところに、「銀座に残る踏切信号機」があります。この信号機は昭和6年(1931年)から昭和62年1月までの56年間、国鉄汐留駅と東京都中央卸売市場築地市場との間の貨物引込み線に使われていました。銀座御門通り会・銀座金春通り会など地元民の要望により昭和62年(1987年)12月からこの地に保存されるようになったものです。   つづく

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2009年6月16日 (火)

新橋から鉄道発祥地を築地へ 2. 「旧新橋停車場」、「カレッタ汐留」、「電通四季劇場 海」など

新橋から鉄道発祥地を築地へ 2.として記述します。

☆「旧新橋停車場」、「カレッタ汐留」、「電通四季劇場 海」など

Img_7392 日本テレビのビルを見てから歩道橋を歩いて、パナソニック電工のビルImg_7388 Img_7389 を回り込む形で北に向かいます。JR新橋駅の東側200mほどのところに「旧新橋停車場」があります。この停車場は、明治5年(1872年)に開業した日本初の本格的な洋風駅舎で、木骨石張りの二階建て構造です。設計はアメリカ人技術者のブリジェンスが担当しました。2002年以降のシオサイト開発に合わせて復元されました。

この建物の内部は、鉄道歴史展示室になっています。建物の横浜寄り(南側)には、当時の「プラットフォーム構造」と、測量の起点となる第一杭が打ち込まれた場所の「0哩(ゼロ・マイル)標識」や当時の線路も展示されていました。

この建物の西側には「汐留BEER DINING LION」があり、豊富なメニューとボリュームのある料理に人気が集まっていました。

Img_7395 再度、歩道橋に上り、東南方向約200mに位置する「カレッタ汐留」というImg_7401 Img_7404 ビルに向かいます。途中左側に大胆なデImg_7407 ザインのビルが見えますが、黒川紀章設計のビル「中銀カプセルタワービル」です。電通本社が入る「カレッタ汐留」は、シオサイトの中で最も早く開業した47階建ての高層ビルです。カレッタの名は、幸運を呼ぶ動物とされている「アカウミガメ」の学名 Carettaに由来しています。このビルの地下2階には、「亀の噴水」が噴出する大量の蒸気が人気を呼んでいます。地下一階には吉田秀雄記念事業財団が運営する「アド・ミュージアム東京」があります。マーケティングや広告の技術の発展を目的として広告関連の収集・展示を行い、広告専門図書館ももっています。

Img_7397 1-3階は、劇団「四季」の常設専用劇場の「海」があり、46階には無料展Img_7411 Img_7422 望スペースもあります。このビルの売り物は、要所要所に置かれた奇抜な椅子(デザイナーズ・チェア)の展示です。100種類以上あるそうで、これを見るだけでも、このビルを訪れる価値があります。   つづく

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2009年6月15日 (月)

新橋から鉄道発祥地を築地へ 1. 「新橋駅」、「汐留シオサイト」など

新橋から鉄道発祥地を築地まで 1.として記述します。

☆「新橋駅」、「汐留シオサイト」など

案内書(JTBパブリッシング発行「東京 下町・山手ウオーキング」)によれば、次のコースは新橋から築地までです。中見出しは「廃線跡を歩く」、小見出しは「日本鉄道発祥地から銀座に残った最後の踏切信号機へ」です。

6月9日(月)は、「新橋駅」から始まります。「汽笛一声新橋をー♪♪」と鉄道唱歌で歌われた明治5年(1872年)の日本鉄道の発祥地である「初代新橋駅」は、現在の新橋駅より数百メートル海側にありました。その後、大正3年(1914年)の東京駅の開設にともなって、旧新橋駅は貨物専用の「汐留駅」に変わります。

Img_7377 今回のウオーキングの起点となる「JR新橋駅」は、明治42年(1909年)のImg_7378 開設で、最近の一日の利用客は、約25万人です。同じく、この駅に乗り入れている浅草が起点の東京メトロ銀座線は、昭和9年(1934年)の開業で、一日の利用客は22万人弱です。さらにこの駅に乗り入れている都営地下鉄・浅草線は昭和38年(1963年)開設で、一日の利用客は8万人弱です。

Img_7379 昭和61年(1986年)に国鉄汐留貨物駅も廃止されて、31ヘクタールにおImg_7380 Img_7381 よぶ広大な土地の再開発が大きなテーマImg_7384 になりました。平成7年(1995年)に、東京都の都市基盤整備と民間のプロジェクトの協力で、本格的な再開発が始まりました。2002年には、愛称の「汐留シオサイト」も決まり、都営地下鉄・大江戸線の「汐留駅」も開業しました。

Img_7385 昨年オーストラリア人の友人がこの地区のロイヤル・パーク・シオドメ・のImg_7386 ホテルに宿泊した折に、私はこの近辺をを歩いていましたので、驚くことはありませんでした。ところが今回あらためてここを歩いてみますと、林立する高層ビルに圧倒される感じがしました。

JR新橋駅・汐留口に出て、ゆりかもめの新橋駅を見て、第一京浜を跨ぎました。日本テレビ、資生堂、ロイヤル・パーク・タワー、パナソニック電工のビルなどを見ながら、「旧 新橋停車場」に向かいました。   つづく

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2009年6月12日 (金)

高円寺駅から新高円寺駅へ 5. 「ルック商店街」、「蜻蛉玉ばびるす」、「新高円寺駅」など

高円寺駅から新高円寺駅へ 5.として記述します。

☆「ルック商店街」、「蜻蛉玉ばぶるす」、「新高円寺駅」など

Img_7363 旧宝橋から南側の道は、レンガ材を使った美しい舗装道路です。ここかImg_7369 ら青梅街道までの約600mが、「ルック商店街」のテリトリーです。

Img_7365 楽しい店が続きます。「金柑餅」という羽Img_7366 二重餅の中に、種を抜いた大粒の金柑の甘露煮が白餡に包まれた餅を得意とする「利休」があります。すぐ先の右側には、Img_7367 300種類の飲み物を用意するという「Cafe Noble」があります。

Img_7370 さらに先の左側には、古着や古本、自費出版本を扱っている「アニマル洋子」、洒落た雑貨を扱う「高円寺工房MALTO」などを眺めていても厭きません。

少し先の「蜻蛉玉(とんぼだま)ばぶるす」は、楽しいお店です。模様のついたガラス玉を、トンボの複眼に見立てて「蜻蛉玉」と呼びますが、200-Img_7372 300年前のベネチア・アンティーク玉から手軽に買える玉まで揃っています。漆喰の壁・曲線のきれいな棚・店内を眺めるだけでも華やいだ気持ちになります。

Img_7373 さらに先の左側は、大きな器に手作りプリンが乗り、カラImg_7374 メルがたっぷりの「ジャンボ・プリン」が人気の「七つ森」」があります。さらに先の右に入る路地には、文字通りの猫の額のような小さな店「猫の額」がありました。木曜日は開店しないようでしたが。

Img_7376 まっすぐ北に進むと、青梅街道に出ます。左折するとすぐに東京メトロ丸の内線の「新高円寺駅」になります。この駅は昭和36年(1961年)に開業し、最近の一日の利用客は3万3千人弱といわれています。

この項終わり。

つづく

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2009年6月11日 (木)

高円寺駅から新高円寺駅へ 4. 「パル商店街」、「長仙寺」、「桃園川緑道」など

高円寺駅から新高円寺駅へ 4.として記述します。

☆「パル商店街」、「長仙寺」、「桃園川緑道」など

Img_7353 高円寺ストリート2番街から、南に向かう御影石の路面が美しいアーケード街の「パル商店街」に入ります。この商店街は2003年にリニューアルされました。新旧の店が軒を連ねる老若男女で賑わう通りです。

Img_7360 通りに入ってすぐ左側に、大人のためのレコード屋をコンセプトとした「新星堂高円寺レコード」があります。1970年代から80年代のCDの在庫1万枚を揃えているそうです。

Img_7359 右の横道に入ると真言宗豊山派の「長Img_7361 仙寺」があります。本尊は不動明王像で、1704年に建立されました。この寺の南隣に名曲喫茶の「ネルケン」がありました。パImg_7355 ル商店街に戻ると左側に本格的な韓国料理の「明洞」があります。石焼きビビンバが絶品です。少し先の左側には「そば茶屋」がありますが、この日は開店していません。この地域では木曜日閉店の店が多いようです。この商店街の南端にあたるのが、昭和42年に暗渠化された花園川に架Img_7357 かっていた「旧 宝橋」です。花園川は玉川上水から分流した千川用水のいくつかの流れに風流な名前を付けたといわれています。いまは、花園川緑道になっています。

パル商店街や北に続くルック商店街は、駅北側の純情商店街などとともに、「東京高円寺阿波おどり」の主要な会場にもなっています。昭和32年(1957年)に「高円寺ばか踊り」から始まったこの催しは7回目から「高円寺阿波おどり」と改名され、商店会の振興策にもなり、最近の高円寺人気を支える重要な柱にもなっています。

毎年8月の最終週の土曜日と日曜日(さらに前日の前夜祭を加え)に行われる阿波踊りは、本場徳島の阿波踊りを凌ぐ、120万人以上の見物客を集める一大イベントに発展したようです。   つづく

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2009年6月10日 (水)

高円寺駅から新高円寺駅へ 3. 「馬橋公園」、「北中通り商栄会」、「元祖仲屋むげん堂」など

高円寺駅から新高円寺駅へ 3.として記述します。

☆「馬橋公園」、「北中通り商栄会」、「元祖仲屋むげん堂」ほか

Img_7334 庚申塔から600mほど、住宅地を通る細い道を西に向かうと、池もある緑Img_7335 Img_7336 の多い昭和60年(1985年)に建設されたImg_7338 杉並区立の「馬橋公園」です。もともとは気象庁の気象研究所があった場所ですが、1980年のつくば市への移転した跡地を防災空き地を兼ねた公園として整備されました。隣接して大きな運動場もありました。

Img_7339 南側に隣接する馬橋小学校の西を通り、すぐに左折します。途中、右側Img_7340 Img_7342 に蔦のからまるチャペルのある「単立馬Img_7341 橋キリスト教会」がありました。400mも進むと南北に走る馬橋通りに交差します。右折してすぐに左斜め(南東方向)に入る道が「北中通り商栄会」のあるCENTRAL ROADmp看板を掲げる通りです。新旧の商店が軒を並べて、独特の雰囲気のある商店街です。この通りの東端の高円寺駅に近い場所に、青木書店・都丸書店などの老舗古書店がありました。この日は開店していませんでしたが、青木書店は、「全然大丈夫」という映画の舞台になった場所だそうです。

Img_7354 中央線の高架下の商店街が「高円寺ストリート2番街」です。この日は開Img_7352 店していなかった怪獣たちのならぶ「ゴジラ屋」やまだ東南アジア諸国の製品が日本で馴染みのなかった時代からエスニック・ファンに支持されている「元祖仲屋むげん堂」も、豊富な品揃えをしていました。   つづく   

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2009年6月 9日 (火)

高円寺駅から新高円寺駅へ 2. 「純情商店街」、「庚申通り商店街」、「庚申塔」など

高円寺駅から新高円寺駅へ 2.として記述します。

☆「純情商店街」、「庚申通り商店街」、「庚申塔」など

Img_7322 宿鳳山 高円寺からJR高円寺駅に戻り、こんどは北口方面を歩きます。高円寺は駅付近以外は閑静な住宅地です。戸建ての住居のほか、学生向けのアパートやワン・ルーム・マンションなども多く、一人暮らしの若者に人気があります。杉並区の人口統計によると、高円寺周辺が、人口に占める20代、30代の若者の比率が、際立って高くなっています。

駅の周辺は商店街が多く、古着屋などの若者向け衣料品店、雑貨店や安い献立の飲食店、古書店、小さなライブハウスなどが目立ちます。大規模小売店舗ではなく、多数の小規模店舗が林立している商店街が若者の魅力となって、休日の賑わいにつながるようです。

Img_7323 最初の商店街は、かつては高円寺銀座と呼ばれていた北に向かう「高円Img_7324 Img_7325 寺純情商店街」です。1989年にねじめ 正一が、自ら育った乾物屋を営む商家を中心に描いた小説「高円寺純情商店街」で第101回の直木賞を受賞してから改名されました。翌年の1990年4月にテレビ朝Img_7328 日系列で放送されたことでも、人気があがりました。大正時代からの古いImg_7329 お店もたくさんあります。

Img_7327 さらに先が、「庚申通り商店会」の地域になります。高円寺駅開設の大正時代からできた商店街で、いまでもパル商店街と一、二を争う人通りがあります。特に夕方が混雑するようです。音楽やアートの充実で名の高い「高円寺文庫センター」もありました。

Img_7331 右側にあるのが、この商店街の由来ともなった「庚申塔」です。猿にちなImg_7333 む塔で、三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)の中、なぜか見ざる(猿)は見つかりませんでした。   つづく

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2009年6月 8日 (月)

高円寺駅から新高円寺駅へ 1. 「高円寺駅」、「気象神社」、「宿鳳山 高円寺」など

高円寺駅から新高円寺駅へ 1.として記述します。

☆「高円寺駅」、「気象神社」、「宿鳳山 高円寺」など

案内書(JTBパブリッシング発行「東京 下町・山手ウオーキング」)によれば、次のコースは、「高円寺駅から新高円寺駅へ」です。中見出しは「青春時代」、小見出しは「永遠の青春の街・高円寺の商店街をたどって歩く」です。

Img_7304 6月4日(木)のウオーキングの開始は、「JR高円寺駅」です。大正11年(1922年)7月に開通した中央・総武線の駅で、快速列車は平日のみの停車で、土曜・休日は各駅停車の列車のみが停車します。最近の利用客(降車客を含まない)は、5万人弱となっています。

Img_7305 高円寺駅南口を左に坂を下りるとすぐに、「高円寺氷川神社」がありまImg_7306 Img_7308 す。この境内の左側に、日本唯一のお天気の神様である「気象神社」が祀られています。もともとは、陸軍気象部内(現在の馬橋公園内)にあった「八意思兼命(やごころおもいがねのみこと)…智恵の神」をImg_7311 祀った神社から、ここに移されました。

氷川神社境内には「近隣の9つの街の神輿と山車の格納庫」があります。賑やかに繰り広げられるお祭りを想像することができます。

Img_7320 つぎは、案内書にはありませんが、この土地の名称の由来である曹洞宗Img_7313 Img_7314 の「宿鳳山 高円寺」を訪ねました。歴史Img_7316 的には、江戸時代に三代将軍の徳川家光が鷹狩りの途中にたびたび立ち寄った寺として伝えられています。氷川神社前の坂をさらに下り、中央公園の左側の道を直進して、正門から見学するコースがお薦めです。京都の大寺院にもまけない広大な敷地・荘厳な本殿・地蔵尊・葵の紋のある屋根瓦など、見どころがたくさんありました。   つづく 

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2009年6月 5日 (金)

駒場東大前から下北沢へ 6. 「本多劇場」、「食品市場」、「下北沢駅」など

駒場東大前から下北沢へ 6.として記述します。

☆「本多劇場」、「食品市場」、「下北沢駅」など

Img_7299 洋菓子店シェ・リュイから北に向かい、井の頭線の線路下を抜けると左側に「本多劇場」があります。線路下の通路の上には大きな看板があって、そこにはポップな絵が描かれています。

「演劇の街」として知られるようになった下北沢ですが、自らも俳優である本多 一夫(1934年北海道生まれ)が「演劇表現を志す若者に、活動の機会を与えたい」と、昭和56年(1981年)3月に小劇場「ザ・スズナリ」を開設したのが始まりです。その後、Img_7301 1982年の「本多劇場」、1984年の「下北沢駅前劇場」、1988年の「相鉄本Img_7302 多劇場」、1993年の「OFF・OFFシアター」、1997年の「『劇』小劇場」、2007年の「小劇場『楽園』」と次々にグループの劇場を開設しました。

小劇場スズナリは、すずなり荘というアパートの2階にあった俳優養成所「本多スタジオ」が前身で、稽古場を劇場として改装したものだったといわれています。

Img_7300 客席数386を持つ「本多劇場」は、演劇専用劇場として設計されたグループの代表的な劇場で、舞台・観客設備なども充実しています。新宿の紀伊国屋ホールとならぶ小劇場演劇のメッカです。杮落としを飾ったのは唐十郎作の「秘密の花園」、いまは人気劇団の「夢の遊眠社」や、「第三舞台」などが上演し、人気を集めています。

Img_7303 2007年現在、下北沢駅は現在立体交差化の工事が続いていますが、小田急の線路を越えた駅の北側に昔ながらの「下北沢北口駅前食品売り場」があります。いわゆる戦後にできた「闇市」が前身です。最近は店を閉める商店も増えて、活気を失いつつあるとの話が聞こえてきます。昭和が遠くなりつつあるのを感じます。

終着は、「下北沢駅」です。開業は昭和2年(1927年)で、最近の一日の乗降客は、小田急が13万5千人。京王線が13万3千人です。今後、一、二年で、小田急の立体化工事の終了とともに、この駅の表情は大きく変わりそうな気配です。

この項、終わり。

つづく   

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2009年6月 4日 (木)

駒沢東大前から下北沢へ 5. 「茶沢通り」、「代沢三差路」、「下北沢南口通り」など

駒沢東大前から下北沢へ 5.として記述します。

☆「茶沢通り」、「代沢三差路」、「下北沢南口通り」など

Img_7287 森巌寺に沿った細い道を北に向かうと「茶沢通り」に交差します。世田谷Img_7288 Img_7289 区道の茶沢通りは、三軒茶屋と下北沢や東北沢を結ぶことから茶沢の名が付きました。交通量の多い重要な道路ですが、道路幅が11mしかない部分もあって、拡幅が期待されています。

Img_7294 この交差する辺りが「代沢三差路」と呼ばれています。ここから北に向かImg_7292 う「下北沢南口通り」の周りは若者たちで溢れる感じに変Img_7290 わります。右左にさまざまな商店が並びまImg_7293 す。若者向けのファッションの店が増えているようです。

案内書に従って、1975年にオープンしたライブ・ハウスの「LOFT]、急須を使って25種類のお茶を楽しめる日本茶喫Img_7296 茶「つきまさ」、昔懐かしい駄菓子が並ぶ「ぜんば商店」、少し西に外れたImg_7298 道にある50年以上営業している老舗「ジャズ喫茶マサコ」や東に外れた道にあるメイプル・メロンパンで人気のあるフランス菓子店の「シェ・リュイ下北沢店」などを覗きました。土曜日の午後でしたので、若者の熱気が溢れていました。   つづく

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2009年6月 3日 (水)

駒場東大前から下北沢へ 4. 「北沢八幡宮」、「森巌寺」、「打心蕎庵」など

駒場東大前から下北沢へ 4.として記述します。

☆「北沢八幡宮」、「森巌寺」、「打心蕎庵」など

Img_7267 駒場野公園正門に戻り、再び井の頭線沿いを西に向かいます。すぐ左手に「都立国際高校」があります。この高校は、いわゆる海外帰国子女や在京外国人の選抜比率の高い学校です。さらに先の井の頭線沿いの坂道を下り、鋭角に切り返す形で入り込む道があります。特徴のない住宅地の道を真っ直ぐに600mも進むと「淡島通り」に交差します。

Img_7268 右折して淡島交番を過ぎ、右手斜めに進む道に入ると500mほど先の右Img_7270 Img_7273 手に「北沢八幡宮」があります。室町時代中期に、この界隈を治めていた吉良家によって勧請されたものと伝えられています。現在の社殿は、1782年に再建され、立派な神楽殿などもあります。

Img_7275 さらに150mほど先には、徳川家康の次男秀康の位牌所として、慶長13Img_7281 Img_7282 年(1608年)建立された「森巌寺」がありまImg_7280 す。境内には樹齢400年以上のイチョウが鬱蒼と茂っていました。境内にある「淡島神社」は、腰痛のためのお灸の特効治療所としても知られています。また、この寺では江戸時代以来毎年2月8日に「針供養」が行われます。境内にある淡島堂に豆腐を供え、裁縫に使われた古針を刺して供養します。

Img_7276 森巌寺の道を挟んで南側にある「打心蕎庵」で昼食をとりました。とろろImg_7277 そば・地ビール「天狗」・蓬餅・くず餅やそば湯まで美味しい蕎麦屋でした。中庭にイチョウの巨木のある静寂な雰囲気も気に入りました。   つづく

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2009年6月 2日 (火)

駒場東大前から下北沢へ 3. 「日本民藝館」、「駒場野公園」、「ケルネル田圃」など

駒場東大前から下北沢へ 3.として記述します。

☆「日本民藝館」、「駒場野公園」、「ケルネル田圃」など

Img_7253 駒場公園の後は正門に戻り、公園の西側の道を駒場東大前駅に戻る形で進みます。すぐに右側に「東大駒場Ⅱキャンパス」(駒場リサーチキャンパス)があります。ここには、工学系研究科の一部や先端科学技術研究センター(1987年に設置)・生産技術研究所(2001年に六本木からここに移転)などの付属設備もあります。

Img_7255 さらに進むと昭和11年(1936年)10月に開館した「日本民藝館」があります。この民藝館は、民藝(民衆的工藝)の美の認識の普及と、新しい生活工藝の振興をめざす民藝運動の本拠地として、運動の創始者で宗教哲学者であった柳 宗悦(1889-1961年)を中心とするグループによって建てられました。

Img_7257 駒場通りを進み、井の頭線の線路を西側に渡って、線路沿いに歩きまImg_7258 Img_7217 す。線路の東側には「駒場国際交流会Img_7260 館」の4つの建物が見えます。ここは、約70の国から初めて日本に来た外国人留学生に対し生活の場を提供し、留学生相互の理解と親睦をはかる目的で、日本学生支援機構によって運営されています。

Img_7259 左側すぐのところに「目黒区立の駒場野公園」の入り口があります。このImg_7262_2 Img_7263 一帯は明治時代から東京帝大農学部や東京教育大学農学部があったところで、札幌農学校とともに近代農学の発展を担ってきました。1978年の教育大学の閉校(筑波大学に機能移転)により、跡地が公園として整備されました。1986年になって目黒区立駒場野公園として開園されることになります。

公園内には、近代農業の指導者として肥料や土壌の研究で功績を残した、いわゆるお雇Img_7265 い外国人のオスカル・ケルネルの名の付いた「ケルネル田圃」があります。管理と維持は近接している筑波大付属駒場中・高生がおこなっています。

また、東側の一角には、駒場野自然観察舎という展示室があって、動植物に関する資料が揃えられています。   つづく

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2009年6月 1日 (月)

駒場東大前から下北沢へ 2. 「旧前田侯爵邸洋館」、「旧前田侯爵邸和館」ほか

駒場東大前から下北沢へ 2.として記述します。

☆「旧前田侯爵邸洋館」、「旧前田侯爵邸和館」ほか

駒場公園内の前田侯爵の邸宅だった洋館および和館を見学します。侯爵がロンドン駐在Img_7225 武官であったことから、外人客接待用に建てたともいわれています。化粧Img_7228 Img_7231 レンガやタイル張りのほどこされた「洋Img_7233 館」は、昭和4年(1929年)に建設されました。建築様式は、英国のチューダー様式で、玄関ポーチなどに特徴があります。華々しい社交の場だったこの優美な豪邸も、第二次世界大戦中の不慮の死の後、私人の手に渡り、終戦と共に占領軍に接収されました。昭和32年(1957年)国が買い取り、昭和50年4月から目黒区の公園になりました。土・日・祝日のみに一般公開されますが、幸いにもこの日は土曜日でした。

Img_7237 書院造りの「和館」は、昭和5年(1930年)に完成しました。自然の巨木をImg_7240 Img_7243 生かし、名石をあしらった奥庭も造られまImg_7245 した。和館は、現在一階部分だけが一般に開放されています。玄関から二の間、一の間(表玄関)と続く広間や重厚な床のImg_7247 間、違い棚、欄間の透かし彫りなどそなえた美しいつくりを見ることができます。廊下に座ってじっくり眺める奥庭に静寂を感じました。

和館の北側には「日本近代文学館」が設置されています。近代文学に関する資料の閲覧ができます。公園正門の西隣には「前田育徳会」の建物もありました。   つづく

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2009年5月29日 (金)

駒場東大前から下北沢へ 1. 「駒場東大前駅」、「東大駒場キャンパス」、「駒場公園」など

駒場東大前から下北沢へ 1.として記述します。

☆「駒場東大前駅」、「東大駒場キャンパス」、「駒場公園」など

案内書(JTBパブリッシング発行「東京 下町・山手Uオーキング」)によれば今回のウオーキングは、駒場東大前駅から始まります。中見出しは「青春時代」、小見出しは「駒場に残った自然を楽しみ 若者の街、下北沢へ」です。

Img_7209 5月9日(土)は、駒場東大駅の午前11時過ぎから始まります。この京王電鉄・井の頭線の駅の名は、「駒場にある東大の前」ではなく、昭和40年(1965年)7月に駒場駅と東大前駅が統合されたことに由来します。昭和8年(1933年)8月に開業したこの駅の最近の利用客数はほぼ3万8千人です。

Img_7213 案内書では西口からすぐに駒場小学校方面に進むことになっていますImg_7212 Img_7214 が、「東大駒場キャンパス」を訪ねたい気Img_7215 持ちになって、駅近くの細道に入り、テニス・コートの脇から東大教養学部の構内に入りました。正門近くの一号館校舎や銀杏並木は風格があって、見事です。この日は土曜日でもあり、13号館で「ノーベル物理学賞受賞者の益川 敏英博士」の講演が予定されていて、準備が始まっていました。益川博士は、外国語嫌いを公表したことで、素粒子物理学といういかめしい印象が薄れて、人気が高まっています。

Img_7210 また、駅近くまで戻って、駒場小学校の前を北に400mほど進み、「駒場Img_7221 Img_7223 公園」に向かいます。目黒区立のこの公Img_7222 園は、区立公園の中で2番目に大きな4万平方メートルを超える広さがあります。加賀(今の石川県)百万石の当主だった旧前田家の前田 利為侯爵の駒場邸の跡です。

前田侯爵がこの地に邸宅を構えたのは昭和のはじめのことですが、明治11年以来駒場農学校の敷地でした。園内には昭和初期の和洋両建築の粋を集めた旧前田侯爵邸・洋館および和館、日本近代文学館などもあります。

昭和42年から東京都の公園として、昭和50年からは目黒区の公園として、一般公開されています。   つづく

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2009年5月28日 (木)

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 8. 「尾崎豊 歌碑」、「金王八幡宮」、「豊栄稲荷神社」ほか

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 8.として記述します。

☆「尾崎豊 歌碑」、「金王八幡宮」、「豊栄稲荷神社」ほか

Img_7191 次は渋谷駅東口に出て、東急文化会館跡地を左手に見ながら六本木通Img_7192 Img_7194 りを東に進みます。通り沿いに建つ「渋谷クロスタワー」(旧東邦生命ビル)2階のデッキには、「尾崎豊の歌碑」があります。歌手でシンガーソングライターの尾崎豊(1965-1992年)26歳という若さで世を去りますが、学校や社会の不条理に立ち向かう少年の心の叫びのようなその歌の世界が若者の共感を呼び、カリスマ的存在になりました。デビュー曲「十七歳の地図」の歌詞が歌碑に記されています。落書きが目立つ歌碑ですが、落書きをする若者が彼の支持者なのだと納得できました。

Img_7196   次に信号を渡って西(駅方向)に向かい左折すると「金王(こんのう)八幡Img_7198 Img_7199 宮」があります。この八幡宮は渋谷氏のImg_7201 祖、河崎基家が寛治6年(1092年)に創建したといわれます。現在の社殿は、徳川家光が3代将軍に決定した時に、お守り役の青山 忠俊が家光の乳母春日局とともに慶長17年(1612年)に寄進したものです。その後たびたび修理されましたが、江戸時代前期から中期の建築様式をとどめている貴重な建物といわれています。

玉造稲荷神社や渋谷金王丸 御影堂や、一枝に一重と八重が混在して咲く桜として有名 Img_7203_2 な「金王桜」もあります。高さは約6m、目通り(目の高さの幹周)約1.25mです。

Img_7207 金王八幡宮の道を挟んで南側には「豊栄稲荷神社」があります。境内に13の庚申塔が並ぶので有名です。

この後は、渋谷駅の東口に戻ります。この項終わり。

つづく

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2009年5月27日 (水)

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 7. 「マルイシティー渋谷」、「渋谷パルコ パート1」、「シブヤ西武B館・A館」など

渋谷ハチ公口から金王八幡宮へ 7.として記述します。

☆「マルイシティー渋谷」、「渋谷パルコ パート1」、「シブヤ西武B館・A館」など

Img_7184 たばこと塩の博物館の後、公園通りを南の渋谷駅方面に向かいます。す ぐ右手にあるのが「マルイシティー渋谷(丸井渋谷・OIOI)」です。昔は丸井本店と呼ばImg_7185 れていましたが、名称が変わりました。西洋風な外観と上に伸びる円柱の上にある「OIOI」の文字が印象的です。客筋は若者よりやや上の世代をターゲットとした衣服・ファッションのショッピング・モールです。この店のオープンは、1958年です。

Img_7180 先には、「渋谷パルコ パート1」があります。。西武系のセゾンが2002年秋にリニューアル・オープンしたレディース・メンズ ファッションの店です。渋谷パルコは、都心型の「ファッション・スタイル」、「カルチャー・スタイル」および「ナイト・ライフ・スタイル」を提案しながら、若者の街を演出したいとしています。

Img_7181 さらに先には、「東京山手教会」があります。日本国内約1700の教会によImg_7182 る「プロテスタントの合同教会」です。1948年に赤坂の霊南坂より独立して、建設されました。この地はまた、「小劇場 渋谷ジアンジアン」の跡地でもあります。収容人員200人未満の前衛小劇場で、1969-2000年まで存在しました。淡谷のり子や美輪 明宏のライブや永 六輔のトークなどが人気を呼んでいました。

さらに南には「シブヤ西武」があります。西武百貨店が経営する店で、2007年3月にリニューアル・オープンしました。B館地下一階の「高級食品ストア」やA館地下一階の婦人靴専門の「シューズプラス」が注目されています。

Img_7189 若者のメッカを巡っているうちに渋谷駅に着きました。駅前のガードをくぐImg_7190 ると、夜は中年男性に人気のある「のんべい横丁」になります。戦後からの焼き鳥屋や小料理屋が並ぶ昭和の匂いの強い横丁です。横丁を抜けた北側の奥には「宮下公園」があります。春は緑の多い公園ですが、夜間はセキュリティーにも配慮したいものです。   つづく

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2009年5月26日 (火)

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 6. 「NHKホール」、「たばこと塩の博物館」など

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 6.として記述します。

☆「NHKホール」、「たばこと塩の博物館」など

Img_7165 NHKスタジオパークの北東にある6階建ての建物が1973年6月に千代田区内幸町から移転した「NHKホール」です。3800人収容できる大規模なホールで、年末のNHK紅白歌合戦の生放送をはじめ、NHK交響楽団の定期演奏会やオペラ・バレーなどなどに広く使用されています。

Img_7167 次は渋谷C.C.LEMONほーる東側の道「公園通り」を通って渋谷駅方面にImg_7168 向かいます。途中に案内書に記載されている一本東側の細い道に面してレンガ造りの建物にある「クレープ専門店Au Temps Jadis(おたんじゃでぃす)」に立ち寄りました。フランス北部ブルターニュ地方の郷土料理ガレット(そば粉のクレープ)が有名だそうです。

Img_7170 公園通り左側には、ライブハウスの「Egg-man」があります。1981年設立 Img_7173 Img_7174 の老舗ライブハウスで、110席の設営がImg_7175 可能です。古くは井上陽水や桑田佳祐などが出演していました。100mも南に進むと、左側に日本たばこ産業(JY)が運営する「たばこと塩の博物館」があります。1978年に当時の日本専売公社によって、たばこと塩に関する資料の収集や調査を行うために設立されました。2階は「日本のたばこの歴史」に関する展示、3階は、「日本の塩、世界の塩」の展示があります。   つづく

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2009年5月25日 (月)

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 5. 「旧 渋谷公会堂」、「NHK放送センター」など

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 5.として記述します。

☆「旧 渋谷公会堂」、「NHK放送センター」など

Img_7152_2 とうふ料理二合目から200mも東に進むと、南北に走る井の頭通りと交差します。この通りを横切って直進すると右側に「二・二六事件慰霊碑」があります。昭和40年(1965年)に有志により建立されたと記されています。二・二六事件は、陸軍皇道派の青年将校らが1483名の兵を率いて、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて昭和11年(1936年)2月26日に時の岡田首相や高橋大蔵大臣を襲った事件です。首謀者の将校の安藤輝三、野中四郎ら19名が銃殺刑を執行されました。この地に死刑執行場所の陸軍刑務所があったそうです。

Img_7154 先に進むと、同じく右側に「旧 渋谷公会堂」があります。現在の正式名Img_7155 Img_7159 称は、「渋谷C.C.LEMONホール」です。クImg_7157 ラシック音楽の演奏会場やテレビの人気番組の公開生放送会場として有名に なりました。収容人員2084名で、1964年に建設され、2005年の改修を経て今日に到っていますが、2006年10月から5年間のネーミングライツ(施設命名権)の設定により現在の名称になりました。最近はプロ野球の球場もこのネーミングライツの売却で聞きなれない名前になって不便な感じがしますが、歴史ある渋谷区立のこの施設が同じ運命にあるのは、不愉快な感じすらもってしまいます。

建物の前には、渋谷区の花・花菖蒲にちなんだ「紫色の水車」、座った少女3人の「渋谷区民憲章碑」や「渋谷 トルコ・日本友好碑」なども置かれていました。

Img_7153 道を挟んで北側の広大な土地が「NHK放送センター」です。全国ネットワImg_7166 Img_7162 ーク番組の大半はここで制作・発信されImg_7163 ています。最初に向かうのは、「NHKスタジオパーク」です。1995年3月の放送70周年記念行事の一環として「視聴者体験型施設」としてリニューアルして設置されました。入場料大人200円ですが、一見の価値があります。訪問時には、「スタジオパークからこんにちは」が、公開放送中でした。   つづく

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2009年5月22日 (金)

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 4. 「戸栗美術館」、「観世能楽堂」、「包むファクトリー」など

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 4.として記述します。

☆「戸栗美術館」、「観世能楽堂」、「包むファクトリー」など

Img_7135 つぎは鍋島松濤公園の北側の道を北東に向けて歩きます。松濤町の高Img_7136 Img_7143 級住宅街は、ゆったりと時間がたっているような感じです。400mも歩くと、左側に「戸栗美術館」があります。実業家の戸栗 亨によって設立された、日本でも数少ない陶磁器専門の美術館です。

Img_7144 さらに200mも進むと左側に「観世能楽堂」があります。1900年の観世会Img_7145 の創立に「観世能楽堂」を活動拠点にすることを決め、この地には1972年に移転されました。座席数552席の規模を持ち、毎年26観世会公演が行われ、同門会は年に130回も開かれるとのことです。

Img_7146 さらに150mほど先に進み、右折した道の右側に「包むファクトリー 渋谷Img_7147 本店」があります。プレゼントを贈る際にラッピングにこだわる人向けに包装紙・リボンなど、豊富な種類をそろえている店です。ラッピング・ペーパー約300種、リボン約400種、BOX約100種が揃っているそうで、驚きました。

Img_7148 元の道に戻ると左側に海鮮料理・豆腐料理のレストラン「とうふ 二合目」があります。白豆や黒豆からつくった「おぼろ3種盛り」、「黒豆湯どうふ」、「生ゆば刺身」などの料理も人気ですが、ゆったりと寛げる店内の雰囲気が若い女性に好まれているようです。   つづく

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2009年5月21日 (木)

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 3. 「Bunkmura」、「松濤美術館」、「鍋島松濤公園」など

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 3.として記述します。

☆「Bunkamura」、「松濤美術館」、「鍋島松濤公園」など

Img_7131 ランブリングストリート北側の突き当たりに「Bunkamura」があります。東急文化村が経営する1989年9月にできた東急グループの文化複合施設です。コンサート・ホール(音楽)、劇場(演劇)、美術館(美術)、ミニ・シアター(映像)の各施設をはじめ、カフェやアート関連ショップなどがあります。座席数747の「シアター・コクーン」や座席数2150の「オーチャード・ホール」などの集客力が高いようです。

Img_7142 ここを左折して500mほど直進します。落ち着いた雰囲気の住宅街を右にImg_7143 Img_7139 曲がると「渋谷区立松濤美術館」です。石造りの外観はヨーロッパ風で、館内は噴水のある吹き抜けを囲むように展示室が配置されています。絵画、彫刻、工芸など年に5回のテーマを決めた特別展を中心にさまざまな美術作品を紹介しています。この日は、「台湾の心・台湾の情 二人展」が開催されていました。私が最初に台湾を訪れた1970年代の農村風景の絵画が印象的でした。

Img_7137 美術館の北西側150mほどのところに、「鍋島松濤公園」があります。湧Img_7138 水池を中心に、各種の草花が公園を彩っていて、松濤近辺の人たちの憩いの場のようです。もともとは、この地は紀州徳川家の下屋敷でしたが、1876年に佐賀の鍋島家に払い下げられ、「松濤園」という茶園になりました。1932年に東京市に寄贈され、1950年から渋谷区の公園になりました。   つづく

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2009年5月20日 (水)

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 2. 「SHIBUYA109」、「Shibuya O-East」ほか

渋谷ハチ公口から金王八幡宮へ 2.として記述します。

☆「SHIBUYA109」、「Shibuya O-East」など

Img_7114 ハチ公像に挨拶した後、スクランブル交差点を横切って西の「道玄坂」にImg_7113 向かいます。曜日に関係なく、この道は若者の闊歩する通りです。いつもは人波に流された気分で、気付くことがありませんが、道沿いにいくつかの彫刻が置かれています。

Img_7112 上り坂の前方に見える円柱形のビルがマルキューの愛称で呼ばれている「SHIBUYA109(しぶや いちまるきゅう)」です。道玄坂のランドマーク的な存在となったこのビルは、1979年の4月に東急グループによって20代から30代女性(現在は10代女性向け)のファッション・ビルとしてつくられました。(当時のビルの名称は、「ファッション・コミュニティー109」でした)現在のビルの名称は、1989年から使われています。名称の由来は「10-9」で、午前10時の開店から午後9時の閉店をも意味していますが、「東急の読み」を数字の十九と読み替えてこれを算用数字化したものです。

Img_7119 なお、道玄坂の名前の由来は、建暦3年(1213年)に滅ぼされた豪族和田義盛の一族の大和田道玄がこの地の窟内に住んで山賊になった名残りというの説が有力です。

Img_7120 道玄坂は、「道玄坂上交差点」で終わりますので、右折しImg_7123 Img_7122 てランブリングストリートに入ります。かつてはいかがわしい円山町のホテル街でしたが、現在は「Shibuya O-East(しぶやおーいーすと)」(1991年2月オープンの収容人員約1000名のライブ・ハウス)や「O-West(おーうえすと)」(1994年7月オープンの収容人員700人のライブ・ハウス)を中心に、ライブやクラブの街として深夜から明け方まで賑わっています。

Img_7118 この通りの東側が渋谷の賑わいの原型といわれる商店街の「百軒店(ひImg_7125 ゃっけんだな)」があります。大正12年(1923年)の関東大震災後、復興にともなう「渋谷開発計画」によってつくられ、百貨店のような空間を出現させるというコンセプトで、有名店・老舗を被災した下町から誘致して繁栄しました。

下町の復興とともに有名店は去りましたが、その跡地に飲食店や映画館、カフェーなどがつぎつぎに入り、百軒店は渋谷の娯楽の中心として新たな賑わいをみせます。ジャズ喫茶やロック喫茶も有名で、文化の街・音楽の街としても有名です。昭和元年(1926年)山寺弥之助が開店した「名曲喫茶 ライオン」や1969年設立の「伝説のロック喫茶 B.Y.G.」は、今も健在の様子でした。   つづく

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2009年5月19日 (火)

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 1. 「岡本太郎の壁画『明日の神話』」、「モヤイ像」、「ハチ公像」ほか

渋谷駅ハチ公口から金王八幡宮へ 1.として記述します。

☆「岡本太郎の壁画『明日の神話』」、「モヤイ像」、「ハチ公像」ほか

案内書(JTBパブリッシング発行「東京 下町・山手ウオーキング」)によれば、次のテーマは中見出し「青春時代」で、小見出しは「様々な青春の舞台となった渋谷界隈を懐かし散歩」です。

5月1日(金)のウオーキングは、JR渋谷駅から始まります。渋谷駅は、明治18年(1885年)に山手線の駅として開業しました。現在は、埼京線、湘南新宿ライン、東急電鉄東横線・田園都市線、東京メトロ銀座線・半蔵門線・副都心線、京王電鉄井の頭線などが乗り入れています。一日の乗車人員は44万人を超えています。

Img_7102 最初は、最近話題になっている岡本太郎(1911-1996年)が、メキシコ市Img_7103 Img_7104 で1968-1969年の1年間かけて描いた壁画の大作(縦5.5m、横30m)「明日の神話」が、2008年11月より飾られるようになった井の頭線との連絡通路を訪ねます。この作品は、1970年の「大阪万博」の「太陽の塔」とならぶ岡本太郎の代表作と評価されているようです。

この壁画は個人的にも懐かしい作品です。1975年にM電機の駐在員としてメキシコ市に赴任した折に、北部の住宅地に向かう主要道路の「インスルヘンテス通り」に面して半分建ちかけていた「ホテル・デ・メヒコ」に飾られていたからです。このホテルは財政難から完成することなく、壁画も2003年の再発見時まで、行方不明になっていました。

Img_7105 次は渋谷駅南口の西側の「モヤイ像」を訪ねました。昭和55年(1980年)Img_7106 新島の東京都移管50周年を記念して、新島から渋谷区に寄贈されたものです。最近の若者はここを待ち合わせ場所として利用しているようです。モヤイという言葉は、新島で「催合」(他の人と共同して事をしたり、物を所有したりする意)を意味しているそうです。材料は彫刻するのに容易な、新島産出の「抗火石」が使われています。デザインはイースター島のモアイ像に似ています。

Img_7107 次は、駅の西側に建つ「ハチ公像」です。秋田犬のハチ公(1923-1935Img_7108 Img_7110 年)は、東京帝大上野英三郎教授の飼い犬でしたが、1925年5月に上野教授の急逝後も渋谷駅前で待ち続けたことから、「忠犬」と呼ばれるようになり、1934年に銅像が建てられました。現在の像は1948年に再建された二代目の像です。この付近には路面電車を利用したカフェや「地球のうえにあそぶこどもたちの像」もありますが、忠犬ハチ公があまりにも有名なので、目立ちません。   つづく

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2009年5月18日 (月)

高田馬場から早稲田へ 7. 「都立戸山公園」、「築山 箱根山」ほか

高田馬場から早稲田へ 7.として記述します。

☆「都立戸山公園」、「築山 箱根山」ほか

穴八幡から馬場下町交差点に戻り、西に歩き始めると200m先に「都立戸山公園」があります。途中の右側には、高野山真言宗の「放生寺」がありました。

Img_7091 戸山公園の土地の一帯は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷でしImg_7092 Img_7093 た。二代藩主の徳川 光友により、回遊Img_7094 式庭園の「戸山山荘」として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰(現在の「箱根山」)が造られました。

Img_7096 明治維新後、戸山山荘は明治政府に引き渡され、太平洋戦争終結までImg_7098 Img_7099 は陸軍軍医学校や陸軍の練兵場などに利用されました。昭和24年(1954年)跡地に戸山ハイツの建設が開始され、一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園しました。

公園には樹木が多く、花々もたくさん植えられています。4月27日のこの日は、花の見ごろでもありました。

箱根山の標高は44.6mで、山手線内で最も高い山です。簡単に登れますので、散歩にも向いています。たくさんの女子学生も登山中でした。

次にまた、馬場下町交差点に戻りますが、少し手前の右側に「早稲田大学の戸山キャンパス」があります。この敷地内の「記念会堂」では、音楽会などの催し物がたびたび開催されます。

交差点を右折して東に向かうとすぐに、東京メトロ東西線の「早稲田駅」になります。

この項終わり。    つづく

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2009年5月15日 (金)

高田馬場から早稲田へ 6. 「高田牧舎」、「穴八幡神社」ほか

高田馬場から早稲田へ 7.として記述します。

☆「高田牧舎」、「穴八幡神社」ほか

大隈会館から早稲田大学正門に戻り、南に向かって南門を過ぎると「早稲田大学南門通り商店会」の店が続きます。

Img_7085 学生に人気のいくつかの食べ物屋を挙げてみます。最初が「高田牧舎」です。店名は昔牧場があった時代の名残りですが、学生街にしては、洒落たカフェ・レストランです。ティー・カップや食器類に高級品が使われています。早大教授御用達の店との評判もあるようです。

Img_7086 少し南にあるのが、自家焙煎のカフェの「ぷらんたん」です。昭和25年(1950年)の開業で、1階はペット同伴もでき、マスターの愛犬が愛嬌をふりまく店です。かつて「早大生 吉永小百合」が通った店としても有名でImg_7087 す。

馬場下交差点の角のそばとうどんの店が「三朝庵」です。江戸時代から続く店で、「カレー南ばんとカツ丼の発祥の店」ともいわれています。

Img_7056 馬場下交差点を右折して北東に200mも進むと、「穴八幡神社」がありまImg_7059 Img_7058 す。寛永13年(1636年)徳川幕府・御持弓Img_7057 頭の松平 直次が、この地に的場を築き、射芸の守護神として京都の岩清水八幡を勧請したのが始まりです。境内南側の崖を整地した折に横穴が現れ、金銅の阿弥陀仏が発見されたことから、高田八幡宮を「穴八幡」と改称しました。慶安2年(1649年)には、本堂ほか諸堂が完成し、江戸城の北の鎮護として将軍家の祈祷所になりました。

冬至から節分までの期間に配布される「一陽来復御守」は、江戸時代から続く伝統あるお守りで、金銀融通の効験あらたかといわれます。境内には、布袋尊像や神話の世界を思わせる「神武天皇遥拝記念碑」などもあります。   つづく

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2009年5月14日 (木)

高田馬場から早稲田へ 5. 「大隈講堂」、「大隈庭園」、「大隈会館」など

高田馬場から早稲田へ 7.として記述します。

☆「大隈講堂」、「大隈庭園」、「大隈会館」など

Img_7063 会津八一記念博物館のあとは、正門を出て北側の「大隈講堂」に向かいImg_7061 Img_7062 ます。この講堂の前には、早大通りから入るスクール・バスの停留所もあります。

早稲田大学の創設者の大隈 重信(1838-1922年)が没すると間もなく、大隈重信を記念する事業が計画され、彼の悲願であった大講堂を建設することになりました。大講堂は、地上3階建ての総座席数1435席、小講堂は地下1階の382席。(2007年の改修後はそれぞれ1123席と301席)正面左に7階規模の「時計塔」を持ち、その高さ125尺(約38m)は、大隈が生前に唱えていた「人生125歳説」にちなんでいます。創立125周年の改修工事も同じく125にちなんで行われました。

Img_7079 大隈講堂の北側に広がるのが約3万3千平方メートルの敷地を持つ「大Img_7078 Img_7081 隈庭園」です。もとは彦根藩・井伊家や高Img_7084 松藩・松平家の下屋敷があったところです。明治7年(1874年)大隈重信の別邸の庭園になりました。昭和20年(1945年)の空襲で壊滅的な被害を受けましたが、その後昔の姿に復元されました。芝生と池のある広い庭園は、和洋折衷様式で樹木や生垣が多く、四季折々の花も咲いてキャンパス内のオアシスになっています。

庭園に入ってすぐ右に魔よけの獅子が2頭並んでいます。創立百周年を記念して台湾同学会から寄贈されたものです。

Img_7083 庭園の北側にある地上12階の大きな建物が、「大隈会館」です。隣接してリーガルロイヤルホテル東京があります。早稲田大学関係者の結婚式に大いに利用されています。   つづく

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2009年5月13日 (水)

高田馬場から早稲田へ 4. 「演劇博物館」、「大隈銅像」、「会津記念博物館」など

高田馬場から早稲田へ 4.として記述します。

☆「演劇博物館」、「大隈銅像」、「会津記念博物館」など

Img_7075 水稲荷神社から西早稲田交差点方面に戻り、西口から早稲田大学の「西早稲田キャンパス」に入ります。

Img_7073 門のすぐそばに、「カツ牛めし 三品」というレストランがあります。昭和40年(1965年)の創業時には、牛めし、カツライス、カレーライスの三品だったのが屋号の由来ですので、サンピンと読みます。カウンター席が多く、総量1.1kgを誇る「三品に特盛りご飯と卵まで加えた赤玉ミックス」が大食い学生に特に人気があるようです。

Img_7069 西門からまっすぐ東門に向かうと手前の建物が「早稲田大学坪内博士記Img_7070 Img_7071 念 演劇博物館」です。エリザベス朝時代・16世紀のイギリスの劇場「フェーチュン座」を模して設計されています。坪内逍遥博士が古希に達し、その半生を傾倒した「シェークスピア全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して昭和3年(1928年)10月に創立されました。

錦絵46,000枚、舞台写真200,000枚、図書150,000冊、その他衣装・人形など52,000点を含め数十万点の膨大なコレクションは、文学・歴史・服飾・建築などの分野に大きく貢献しています。

Img_7068 次は、「大隈銅像」に向かいます。正門に正対する形で、西側に置かれImg_7076 ていますが、実は二代目の銅像です。明治40年(1907年)の大学25周年記念に建立された初代の大礼服の銅像は大隈らしくないとの声があがり、早大総長としての大隈銅像が朝倉文夫によってつくられ、昭和7年(1932年)10月の創立50周年に際して除幕されました。

Img_7064 大隈銅像のところを正門に向かって左折しますと、右側に「早稲田大学Img_7065 会津八一(あいづやいち)記念博物館があります。早大出身の歌人・書家・美術史家の会津八一(1881-1956年)が収集した東洋の古美術などを公開する施設です。縄文土器・弥生土器・埴輪女子像(古墳時代)などが印象的でした。   つづく

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2009年5月12日 (火)

高田馬場から早稲田へ 3. 「居酒屋 源兵衛」、「甘泉園公園」、「水稲荷神社」ほか

高田馬場から早稲田へ 3.として記述します。

☆「居酒屋 源兵衛」、「甘泉園公園」、「水稲荷神社」ほか

Img_7041 早稲田通りの右側の古書店街の中に、「居酒屋 源兵衛」があります。昭和元年(1926年)に創業したこの店のモットーは、安い・美味い・量があるの三点だそうです。オムライス、焼き鳥、自家製シュウマイなどに人気があり、たびたび開かれる学生の宴会もあって、学生はもちろん教授も知らない人がない場所だそうです。先に進むと西早稲田の交差点がありますので、信号を渡って左折します。

Img_7042 この角の焼き鳥屋の前に、「旧 高田馬場跡」の標識が立っていました。Img_7045 Img_7048 左折したこの通りを200mも進むと、「甘泉Img_7049 園(かんせんえん)公園」があります。この地は徳川御三郷の一つの清水家の下屋敷だったところで、この公園は回遊式庭園でした。当地で湧き出していた湧き水がお茶に適したところから、この名がつけられたといわれています。1938年に一時早稲田大学の付属施設となっていましたが、1969年から新宿区の公園になっています。公園は起伏のある土地で、豊かな木々とたくさんの花が印象的でした。

Img_7054 公園の南側に隣接して、「水稲荷神社」があります。1963年に早稲田大Img_7053 Img_7051 学との土地交換で、この地に移りましたが、もともとは藤原秀郷が富塚の地に稲荷大神を勧請した「富塚稲荷」でした。元禄15年(1702年)神木の椋(むくのき)の根元より霊水が湧き出し、眼病に効くとして評判となりました。また、火難退散の神託が下ったことから、水稲荷神社に改名されました。

境内には、江戸城を築城した武将として有名な太田道灌の「山吹伝説にちなんだ駒繋ぎ松」もあって、この地が山吹の里だったという説もあるようです。   つづく

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2009年5月11日 (月)

高田馬場から早稲田へ 2. 「早稲田古本店街」、「源兵衛子育地蔵尊」など

高田馬場から早稲田へ 2.として記述します。

☆「早稲田古本店街」、「源兵衛子育地蔵尊」ほか

Img_7027 せっかく高田馬場を訪れたのですから、昔からの歓楽街「さかえ通り」を覗いてみます。JR高田馬場駅の西北側の賑やかな道です。今は、東京富士大学への通学路にもなっていて、学生の多い通りでもあります。

つぎは、早稲田通りを東に進むとすぐ右側に「早稲田松竹」があります。Img_7030 昭和26年(1951年)松竹の封切り映画館として開館、その後1975年から旧作二本立てを中心とした名画座になり、2002年4月から休館となっていました。休館を知った早稲田大学生が中心になり、「早稲田松竹復活プロジェクト」が発足し、2003年1月から本格的な再開となりました。最新映画で話題になっている監督や俳優の「旧作」を上映することが多いといわれています。

Img_7038 南北に交差する明治通りを横切ってすぐの、早稲田通りの右側に「源兵Img_7036 衛子育地蔵尊」があります。元禄時代の末頃、この地にやってきた「源兵衛」は、鉄砲玉をつくり、火薬の番をしながら荒地を開墾しました。その後、人が集まり集落ができて、源兵衛村と呼ばれるようになりました。彼の死後、享保11年(1726年)村の有志たちが地蔵尊を祀ったものなのだそうです。長寿・健康・子宝など多くのご利益があると、地元民から支えられています。

Img_7032 明治通りと交差する左側の角に、「三ツ谷堂製麺所」という風情のあるお店がありました。

Img_7033 明治通りを横切った早稲田通りの左側は「早稲田古本Img_7034 Img_7039 書店街」となります。「平野書店」、「五十嵐書店」、「安藤書店」、「西北書房」などが続きます。通りの右側にも「飯島書店」、「さとし書店」、「いこい書房」などがあります。

同じ古書店街でも、神保町のように書店が軒を連ねるのではなく、ここでは各店が独立した形ながら、たくさんの書店がこの地域に集まっているとの印象です。神保町のように、ある分野の書籍を集中して扱うとの感じはありません。   つづく

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2009年5月 8日 (金)

高田馬場から早稲田へ 1. 「高田馬場駅付近」

高田馬場から早稲田へ 1.として記述します。

☆「高田馬場駅付近」

4月27日(月)の訪問場所は、案内書によれば、高田馬場から早稲田です。中見出しは学生街が主体だからでしょうか、「青春時代」です。小見出しは「数々の青春ドラマを生んだ都の西北の学生街を歩く」です。

Img_7021  始まりは、JRの「高田馬場駅」です。明治43年(1910年)9月山手線の駅として開業しました。昭和44年(1969年)3月には、東京メトロ東西線も乗り入れました。2007年の実績で、二つの路線の一日の利用客は約40万人です。

Img_7020_2 2003年の3月からJRのこの駅の「発車メロディー」は、鉄腕アトムの旧シImg_7018 Img_7019 リーズのテーマ曲となっています。手塚治虫が社長を務めた手塚プロダクションが高田馬場にあることや、「お茶の水博士」が長官を務める『科学省』が高田馬場にあったという縁からの設定のようです。手塚治虫時代までは私も漫画(今風の表記の「マンガ」ではない)ファンであったことに気付きました。

話が前後してしまいましたが、1636年徳川三代将軍家光により旗本たちの馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が設営されたのがこの地の始まりといわれています。高田馬場は堀部安兵衛の仇討ちの場所としても、有名になった土地です。JR高田馬場駅を降りて早稲田通りに出ますが、通りを挟んだガード下の壁面に、手塚治虫に描かれた鉄腕アトムやお茶の水博士などのキャラクターが飾られています。

Img_7024 最近の高田馬場駅のランドマークは、黒川紀章設計の西武鉄道が所有Img_7026 する商業ビルの「BIG BOX」です。駅の東口の古くからの「高田馬場 開発記念碑」や「平和の女神像」などの記念碑は、落ち着いた感じで、土地に馴染んでいます。   つづく

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2009年5月 7日 (木)

駿河台から神保町界隈 7. 「岩波ホール」、「神田古書センター」ほか

駿河台から神保町界隈 7.として記述します。

☆「岩波ホール」、「神田古書センター」ほか

Img_7010 東西を走る靖国通りと南北に走る白山通りの交わるところが神保町交差点ですが、南西の角にあるのが「岩波ホール」です。このホールはミニ・シアターの草分け的な存在の映画館で、1968年2月に開館されました。総座席は232。1960年代、テレビ文化に押され始め映画産業の衰退が始まりました。映画文化の衰退に危機感を感じた東宝東和の川喜多かしこ・岩波ホール総支配人 高野悦子などの尽力で「芸術性の高い映画を採算を無視して上映する映画館」として定着しています。

Img_7011 ホールの西側の岩波ブックセンター信山社ビルの2階に、「美術はがきギImg_7012 ャラリー 京都 便利堂」のアンテナ・ショップがあります。便利堂は1887年の創業以来美術はがきの専門店です。この店でも約500種類のはがきが入手できます。鳥獣戯画がモチーフのグッズに人気が集まっているようです。

Img_7007 さらに、西側のビルが、「高山本店」や「中野書店」など11の古書店が入Img_7008 る「神田古書センター」です。このビルの2階にある「欧風カレー ボンディ」が人気を集めているようです。チーズ・カレーとカレーの前に出されるジャガイモが人気のもとだといわれています。

Img_7014 帰りは、地下鉄「神保町駅」から乗車します。この駅には都営地下鉄の三田線および新宿線と東京メトロの半蔵門線が乗り入れています。1972年の操業開始で、現在の一日の利用客は約34万人です。   

この項終わり。    つづく

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2009年5月 1日 (金)

駿河台から神保町界隈 6. 「大屋書房」、「喫茶店ミロンガ・ヌオーバ」、「本と街の案内所」ほか

駿河台から神保町界隈 6.として記述します。

☆「大屋書房」、「喫茶店ミロンガヌオーバ」、「本と街の案内所」ほか

Img_6998 三省堂の西隣にあるのが、「大屋書房」です。江戸時代の和本、古地 Img_7005 図、浮世絵版画の専門店です。貴重な草Img_7006 双紙などもある珍しい書店です。

神保町に150軒以上あるという古書店は、たくさんの中高年の客で賑わっています。こんなに本好きの人がいることが驚きです。月曜日の午後なので、若者の姿が少ないのは当然ですが、書籍離れが甚だしい若者世代と聞いていますので今後が些か心配です。

Img_7000 さらに靖国通りを西に進みますと、「本と街の案内所」があって、「神田神Img_7004 保町・古書店まっぷ」という小冊子がもらえます。神田神保町古書店名簿を兼ねていますので、分野別の好みの店を探すことができます。靖国通りとすずらん通りの間の横丁風の裏道にある古書店街の名脇役が、「喫茶店ミロImg_7003 ンガ・ヌオーバ」です。ほの暗い店内に流れる懐かしのバックグランドミュージックは、青春を偲ぶに充分です。

同じく地下鉄の神保町駅に近い裏道にある「さぼうる」も、山小屋風の店内やびっしり書かれた落書きで、青春を偲ぶことができます。   つづく

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2009年4月30日 (木)

駿河台から神保町界隈 5. 「カレー・レストラン」、「文房堂」、「ボヘミアンズ・ギルド」ほか

駿河台から神保町界隈 5.として記述します。

☆「カレー・レストラン」、「文房堂」、「ボヘミアンズ・ギルド」ほか

Img_6991 明治大学リバティータワーから明大通りの坂を南に下ります。右側にインImg_6990 ド風カレー・レストランの「スパイス・キッチン」があります。青春時代のシンボルは、カレー料理ですから試食することにします。店頭にナン(インドなど西アジアの「平焼き発酵パン」。精製した小麦粉を水で練り、発酵させてから、タンドールという壷型のかまどで焼く)やタンドリー・チキン(インドの代表的な鶏料理。鶏肉をヨーグルトとスパイスに一晩漬け込み、鶏肉を赤く着色して、タンドールで焼く)が飾ってあり、従業員がインド人らしい店なので、入ってみました。

私たちは、最近マレーシアの滞在で、インド系マレーシア人の経営するインド料理を食べる機会が多く、インド料理のレベルを評価する力があると自負しています。4種類のカレーから2種類を選ぶ定食(サラダ・ご飯・タンドリーチキン・ナン)は、本場ものに負けない芳醇な味でした。隣のレストランは、インド風カレー・ライスの店「エチオピア」で、学生たちで賑わっていました。

Img_6992 さらに南に進んで、「靖国通り」を横切って南に進むと神保町です。東西Img_6993 Img_6997 に延びる細い道の「すずらん通り」に面して専門家向けの油絵の具を製造・販売している「文房堂」があります。大正11年(1922年)建築の建物の「正面外壁」が保存されています。

Img_6995 Img_6996 同じ通りに古書店の「ボヘミアンズ・ギルド」があります。親しめる陳列の店内には、作家の自筆原稿や竹久夢二の作品も飾られていました。

近くに、学生時代から一番親しんだ「三省堂」もあります。「論語」の曽氏の言葉「吾れ 日に三たび 吾が身を省みImg_6994 る」から採って社名としたこの会社は、最近では辞書の出版元として有名ですが、大型展示の本屋として訪れたものでした。明治14年(1881年)亀井 忠一が古書籍業を創業し、近代文化躍進の扉を開いたのを誇りにしている会社でもあります。   つづく

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2009年4月28日 (火)

駿河台から神保町界隈 4. 「山の上ホテル」、「明治大学リバティータワー」ほか

駿河台から神保町界隈 4.として記述します。

☆「山の上ホテル」、「明治大学リバティータワー」ほか

Img_6981 明治大学のアカデミーコモンから明大通りを南に歩くと、すぐに右の坂にImg_6982 Img_6983 上る道があります。坂の上にあるのが「山の上ホテル(ヒルトップ・ホテル)」です。1936年にアメリカ出身の建築家ウイリアム・メレル・ヴォーリズの設計により、「佐藤新興生活館」として建てられました。その後、太平洋戦争中には帝国海軍に、引き続いてGHQ陸軍婦人部隊に接収され宿舎として使用されました。

1954年1月よりホテルとして使用されます。アール・デコ調のクラシックな建物や内装は、総室数75室と小規模ながら、人気を集めているホテルです。出版社が密集していた神田が近いところから、作家の滞在や缶詰(ここでは執筆のためにホテルに強制滞在させられること)に使われることが多く、「文人の宿」としてのイメージがあります。主な作家を挙げれば、川端康成、三島由紀夫、池波正太郎などが定宿としていたようです。

Img_6986 明大通りに戻り、通りを挟んで向かい側が日本大学の敷地になります。Img_6987 1987年12月主婦の友社が出資する御茶ノ水スクエアによって開設されたコンサート・ホールの「カザルス・ホール」があります。2002年から日本大学に譲渡されています。2010年の3月限りで、日本大学のキャンパス再開発で使用が中止される予定なのは、残念です。

Img_6984 また、このカザルス・ホールから明大通りを挟んだ西側に見える高層ビImg_6985 ルが明治大学創立120周年を記念して、1998年に竣工された「明治大学リバティータワー」です。地上23階、延床面積53,000平方メートルを超える堂々たる校舎です。最近は高層建築物は、タワーと呼ぶことが多いようです。

Img_6989 明大通りを少し先に進むと、「日本大学法科大学院」があります。明治大学が親しめる顔に変貌しましたが、この大学院は昔ながらの威厳のある顔の建物でした。   つづく

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2009年4月27日 (月)

駿河台から神保町界隈 3. 「楽器店街」、「明治大学アカデミーコモン」ほか

駿河台から神保町界隈 3.として記述します。

☆「楽器店街」、「明治大学アカデミーコモン」ほか

Img_6969 画廊喫茶ミロの西側が「明大通り」です。この通りは、日本最大の「楽器Img_6971 Img_6972 店街」でもあります。青春時代を満喫する若者に混じって、中高年の客も多いようです。作曲家でギタリストの古賀政男(1904-1978年)が、この地で、「明治大学マンドリン倶楽部」を1923年に仲間10数名とともに設立した影響が大きいような気がします。

Img_6973 明大通りを南に進みますと右側に「明治大学アカデミーコモン」の高層建築があります。2004年4月にオープンした一般にも開放されている生涯教育棟です。高遮熱・断熱複層ガラスを採用して、都市型大学の開放感を演出しているといわれています。

Img_6977 この建物の地下に、2フロアにかけて3つの分野の博物館があり、総合しImg_6979 て「明治大学博物館」と呼びます。「考古学博物館」は、旧石器時代から古墳時代までの各地の遺跡からの出土品の展示です。上塗りの膠が剥げてしまっている300年前の高札など、興味深い陳列品がありました。「商品陳列館」は、全国の名産商品や製作過程などを展示しています。

Img_6980 国内で唯一の刑罰関係の展示があることで有名な「刑事博物館」には、江戸の捕者具や、拷問・処刑具などがありました。明治大学の、一般市民との接点を広げようとの懐の深い考え方が印象的でした。   つづく

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2009年4月24日 (金)

駿河台から神保町界隈 2. 「ニコライ堂」、「画廊喫茶ミロ」ほか

駿河台から神保町界隈 2.として記述します。

☆「ニコライ堂」、「画廊喫茶ミロ」ほか

Img_6959 湯島聖堂から聖橋を渡って、御茶ノ水駅を過ぎて南に向かいます。右側Img_6960 Img_6961 に緑色の大きなドーム型の屋根が特徴の「ニコライ堂」が見えてきます。日本ハリストス正教会に属するニコライ堂の正式名称は、「東京復活大聖堂」で、イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読み)の復活を記念する聖堂です。ニコライ堂の名は、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道士の聖ニコライにちなむものです。

聖堂の手前の「紅梅坂」を上り、左側のニコライ堂の正面に立ちますと、ひときわ風格のある建物に見えます。聖ニコライの依頼により、ロシアの建築家ミハイル・シチューロフが基本設計図を作成し、建築家ジョサイア・コンドルが設計の仕上げと建築監督を務め、1891年3月に竣工しました。

威厳はあるものの、観光客歓迎の雰囲気はまったくありませんでした。

Img_6962 ニコライ堂の正面入り口から中央線に向かって北側に進みますと、右側Img_6963 Img_6964 に「肉の万世 御茶ノ水サンクレール店」があります。学生の人気は、ハンバーガーとミニ・シチューに集まるようです。向かい側には、備前焼の器で供する本格フランス料理・ワインが自慢の「ビストロ備前」もあります。

Img_6965 北側の中央線に最も近い道を左に進み、明大通りの少し手前の横丁をImg_6966 左に入ると「画廊喫茶ミロ」があります。昭和から時間が進んでいない雰囲気の横丁ですので、横丁の狭さを含め、「青春時代」を連想させます。   つづく

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2009年4月23日 (木)

駿河台から神保町界隈 1. 「湯島聖堂」、「聖橋」ほか

駿河台から神保町界隈 1.として記述します。

☆「湯島聖堂」、「聖橋」ほか

4月20日(月)に訪れるのは、案内書によれば駿河台から神保町界隈です。中見出しは学生街だからなのでしょうか「青春時代」で、小見出しは「学生街の喫茶店めぐり」です。

Img_6958 始まりは「JR御茶ノ水駅の聖橋口」です。中央線・総武線の乗り入れるこImg_6941 の駅は明治37年(1904年)に開業しました。一日の利用客は、約11万人です。聖橋口からは、東京メトロ千代田線「新御茶ノ水駅」と乗換えができます。千代田線は昭和44年(1969年)12月に開業しました。この駅の一日の利用客は約10万人です。

Img_6943 私は学生時代から通学で通過していた駅で、ときどき途中下車した場所Img_6954 ですから、懐かしさを感じます。聖橋口を出ると、元禄時代(1690年)5代将軍 徳川綱吉が「孔子廟」として建てられた「湯島聖堂」を訪ねたくなります。

「聖橋」は、昭和2年(1927年)に完成したアーチ橋で、御茶ノ水駅の東端から中央線を跨ぎ、北の文京区湯島につながります。当時、東京市が公募した名前で、湯島聖堂とニコライ堂という二つの聖なる施設を結ぶ橋という意味で、「聖橋(ひじりばし)」と名づけられたそうです。

Img_6945 聖橋を渡り階段を下って、聖堂の正面に立ち、「入徳門」、「杏壇の門」、Img_6946 Img_6947 「大成殿」と、順に上ります。大成殿の屋 根には、ジャガーに似た動物の彫り物が飾られています。

もとに戻ってから、東に進むと1975年(昭Img_6950 和50年)中華民国台北ライオンズクラブから贈られたという「世界で一番Img_6951 背の高い孔子像」が飾られています。

近くには、孔子の墓所にも植えられているいう漆科の大木「かいの樹(かいの字は木偏に皆)」がありました。さらに東には、「仰高門」や「斯文会館」があります。一時、「昌平坂学問所」があった名残かもしれません。   つづく

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2009年4月22日 (水)

白金から恵比寿へ 8. 「ガーデンプレイス・タワー」、「恵比寿麦酒記念館」ほか

白金から恵比寿ガーデンプレイスへ 8.として記述します。

☆「ガーデンプレイス・タワー」、「恵比寿麦酒記念館」ほか

Img_6930 フランス料理レストランのジョエル・ロブションの北側にあるのが「恵比寿Img_6931 Img_6929 ガーデンプレイス・タワー」です。国土交通省の選んだ「都市景観百選」に選ばれた光景の中心となる高さ167m、39階建ての超高層ビルです。展望の良い38階および39階は、「東天紅」など11のレストランが集まっています。

Img_6935 広場となっている広い公園風の空間の東側にある建物が、「恵比寿三Img_6938 Img_6939 越」です。さらに東側の建物は、サッポロ・ビールの事務所ビルですが、地下に「恵比寿麦酒博物館」があります。地下で恵比寿三越とつながるこの博物館の展示は、エビス・ビールに関する歴史を網羅しています。博物館の前には「「東洋のビール王」と呼ばれている馬越 恭平(1844-1933年)の像も置かれていました。

Img_6934 タワーの恵比寿駅よりの赤レンガの建物は、ビヤホールの「ビヤステーImg_6932 ション恵比寿」で、エビス・ビールで喉を潤すこともできます。部屋の外に置かれたテーブルに座ると、個性的な建物が醸し出す独特の快い「都会の空気」に包まれます。

帰りは、24万人が一日に利用するという北に位置する「恵比寿駅」に向かいます。1901年2月に山手線の駅として開業したこの駅は、現在は山手線のほか、湘南新宿ライン・埼京線・東京メトロ日比谷線が乗り入れています。

Img_6940 恵比寿駅からガーデンプレイスまでは、決して近い距離ではないのですが、約400mの「恵比寿スカイウオーク」という屋根つきの歩道があって、「動く歩道(水平に動くエスカレータ)」が設置されています。歩きの苦手な年配者への配慮もなされていました。

この項終わり。   つづく

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2009年4月21日 (火)

白金から恵比寿へ 7. 「恵比寿神社」、「ジョエル・ロブション」ほか

白金から恵比寿ガーデンプレイスへ 7.として記述します。

☆「恵比寿神社」、「ジョエル・ロブション」ほか

Img_6923 日東坂を下り、首都高速の下を過ぎると、すぐに「恵比寿ガーデンプレイImg_6922 ス」に着きます。1887年9月に日本麦酒醸造(のちの日本ビールから現在のサッポロビール)がこの広大な土地に設立した工場で「エビスビール」を製造したのが始まりです。

Img_6925 1901年の恵比寿駅設立、1994年の「ガーデンプレイス竣工を経て商業地Img_6926 として再開発されました。最近は、「再開発の成功例」としImg_6927 て高く評価されています。東側から入りましたので、左側に名門の「ウエスティンホテル東京」の建物が見えます。このホテルの200m手前の右側に「恵比寿神社」があります。商売繁盛を願って、1893年兵庫県西宮の恵比寿大神から勧請したのが始まりで、1994年のガーデンプレイス完成時からこの地に移されました。この神社の脇にはシャクナゲが大輪の花を咲かせていました。

Img_6928 ガーデンプレイス・タワーの方に向かい、右側のシャトー風の建物が高級フランス料理のレストラン「ジョエル・ロブション」があります。2002年に知人にこのレストランに招いてもらってから7年以上経っていることに気づきました。ウエスティン・ホテルや老舗三越の恵比寿店があることで、若者だけでなく年配者にも親しまれる雰囲気が醸し出されています。

なお、「エビスビール」は、1971年に、日本麦酒醸造の後継会社であるサッポロビールから、麦芽100%のプレミアム・ビールとして売り出されています。   つづく

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2009年4月20日 (月)

白金から恵比寿へ 6. 「東京都庭園美術館」から「プラチナ通り」へ

白金から恵比寿ガーデンプレイスへ 7.として記述します。

☆「東京都庭園美術館」から「プラチナ通り」へ

Img_6896 自然教育園の後は、さらに目黒駅方面に向かいます。すぐ右側に「東京Img_6897 Img_6900 都庭園美術館」の入り口があります。このImg_6902 美術館は、1933年(昭和8年)に朝香宮邸として建てられた建物を1983年10月から美術館として公開されるようになりました。終戦後の一時期、外務大臣・首相公邸、国の迎賓館などとしても使われていました。

建築様式は、1920年代から1930年代にかけてヨーロッパの装飾美術を席巻した「アール・デコ様式」を採用しています。フランス人デザイナーが、主要部分の設計や内部装飾を担当し、材料の多くもフランスなどからの輸入品が多く使われています。

Img_6908 ここは従来の美術館とは異なり、建物自体が美術品という考え方が採用され、作品とその観賞空間との間に交感が生まれるように配慮されています。たくさんの彫刻品の置かれた広大な庭園や、日本庭園も見事です。この日は桜が満開の時期でもあり、二つのグループが、桜の花の下で会話を楽しんでいました。

Img_6913 庭園美術館を出てから、目黒通りを東に戻ります。400mほどで、南側にImg_6912 左折する「外苑西通り」に出ます。この通りの別名が「プラチナ通り」です。この通りの両側は、ヨーロッパ・スタイルのお洒落な店が並び、プラチナ(白金)を名乗るに相応しい住宅が続きます。左折してすぐに、案内書に紹介されていたそばレストランというより、「蕎麦屋の利庵」があります。今回は閉店時間中でしたが、洋風中心のこの通りには珍しい純和風の店です。玄そImg_6920 ばを低温貯蔵して、自家製粉するので、一年中香りとそばの弾力を楽しめると評判のようです。

プラチナ通りを400mも進んだ交通信号を斜め左側に入る「日東坂」に出ます。すぐ左側に実業家の故 松岡清次郎の私的な陶磁器・絵画・彫刻を集めた「松岡美術館」があります。   つづく

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2009年4月17日 (金)

白金から恵比寿へ 5. 「東大医科学研究所」から「自然教育園」へ

白金から恵比寿ガーデンプレイスへ 5.として記述します。

☆「東大医科学研究所」から「自然教育園」へ

Img_6882 白金台駅を過ぎて目黒駅方面(西へ)向かうと、右側に花が豊かに咲いImg_6880 Img_6879 ている庭園が見えました。これが、「東大Img_6883 医科学研究所」です。奥の建物が付属病院です。この研究所は、1892年に設立された伝染病研究所を前身とし、付属の研究病院をもつわが国随一の医学・生命科学のための研究を行っています。感染症、ガンなどの疾患を対象として、基礎研究の成果を医療に直結させることを使命としています。

池のある広い構内に花が咲き乱れ、庭園のベンチでは、入院患者と見舞い客が楽しそうに語り合っていました。

Img_6885 さらに400mも西に進むと、右側に広大な国立科学博物館付属の「自然Img_6886 Img_6890 教育園」があります。65歳以上は入場無Img_6893 料ということで、その世代の訪問客が目立ちます。この場所は、古くは高松藩主松平家の下屋敷として、明治以降は軍や皇室の御料地として大切に使用されたようです。その結果、広大な武蔵野の自然が残されました。

瓢箪池と桜、水生植物園、森の小径、物語の黒松(老松)、金鳳花科の白い「にりんそう」や山吹の花などを楽しみました。   つづく

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2009年4月16日 (木)

白金から恵比寿へ 4. 「桑原坂」から「八芳園」へ

白金から恵比寿ガーデンプレイスへ 4.として記述します。

☆「桑原坂」から「八芳園」へ

Img_6867 明治学院大学のすぐ北側の坂道の「桑原坂」を西に上ります。途中、白Img_6868 Img_6873 金小学校の敷地に生えて、花をこの坂にImg_6870 咲かせている桜にも出会いました。さらに進むと入り口に華やかな桜が咲いている「八芳園」があります。八芳園は、現在は結Img_6874 婚式場になっていますが、天下のご意見番「大久保 彦左衛門」の屋敷があった場所で、日立製作所の創設者である久原 房之助が庭園を造ったといわれています。

八芳園の隣に珍しい稲荷神社が祀られていました。「古地老稲荷神社」という名の火事からの厄除け神社です。いかに火事が恐れられていたかの証でもあります。

Img_6875 さらに進むと、すぐに目黒通りに入りますので、左折して西に向かいます。すぐ左手にあるお寺が禅宗の瑞聖寺です。本山である黄檗宗萬福寺Img_6878 Img_6876 を開山した隠元の弟子の「木庵和尚」が寛文10年(1670年)に創建しました。

目黒通りに面して、すぐ横に東京メトロ南北線と都営地下鉄三田線が乗り入れる「白金台駅」があります。   つづく

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2009年4月15日 (水)

白金から恵比寿へ 3. 「明治学院ヘボン館」から「桑原坂」へ

白金から恵比寿ガーデンプレイスへ 3.として記述します。

☆「明治学院大学ヘボン館」から「桑原坂」へ

明治学院大学記念館・インブリー館・チャペルという明治末から大正にかけての3棟の洋館ウオッチングの後、さらに北に進みますと、この大学の創健者ジェームス・カーティス・Img_6858 ヘボン(1815-1911年)博士の像が建物前に置かれている「ヘボン館」がImg_6860 Img_6859 あります。ヘボンの綴りはHepburnで、「ローマの休日」の映画女優オードリー・ヘップバーンと同じです。時代が違っていたらヘップバーン博士と呼ばれたかもしれません。

博士は日米修好通商条約締結翌年の1859年に来日し、医療・伝道活動の傍らで日本語の研究も行い、慶応3年(1867年)「和英語林集成」を編纂しました。今も使われる「ヘボン式ローマ字の表記法」は、博士が考え出したものです。明治学院大学は、宣教師ブラウンの神学教育のための「東京一致神学校」とヘボン塾の後進である「一致英和学校」・「英和予備校」の三つを合同させて、1886年に設立されました。

Img_6857 ヘボン館の裏のヴォーリズ広場に面して、現代的な校舎もあって、ミッシImg_6861 ョン・スクールのイメージのある大学です。

正門守衛所に挨拶し、前に進むと「桑原坂」です。後ほどImg_6863 Img_6864 この坂を右側に上りますが、今は左側に進んで桜田通りに架かる歩道橋に上ります。案内書にここが、白金・高輪地区の高層建築を撮るベスト・スポットとして紹介されています。   つづく

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2009年4月14日 (火)

白金から恵比寿へ 2. 明治学院大学の建物ウオッチング

白金から恵比寿ガーデンプレイスへ 2.として記述します。

☆明治学院大学の建物ウオッチング

覚林寺から桜田通りを北に進みます。右側に明治学院大学の白金キャンパスの建物が現れます。この大学の正門は五反田寄りの一番北側にありますので、正門守衛所で見学Img_6851 許可をもらい、南に歩きはじめます。すぐ左側が「明治学院チャペル(礼 Img_6853 拝堂)」です。

このチャペルは、明治期に多くの洋館の建築を手がけたW.M.ヴォーリズが設計し、大正5年(1916年)に完成しました。木造一部二階建て(外壁の一部がレンガ造り)の建物の「切妻部分」や礼拝堂2階の「飾り窓」やチャペルの内部に置かれたドイツのヴァルカー社製の「パイプオルガン」が特徴とされています。2007年に修理が施され、均整のとれた姿に蘇ったといわれています。

Img_6850 道をはさんで右側の風格ある建物が「明治学院記念館」です。この大学 Img_6852_2 の第一回卒業生の島崎 藤村著「桜の実の熟する時」の中に「…新しく構内に出来た赤煉瓦の建物は、一部は神学校の教室で、一部は学校の図書館に成っていた。まだペンキの香のする階段を上って行って二階の部屋へ出ると、そこに沢山並べた書架がある。…」と記述されています。H.M.ランディス教授の設計で、当時アメリカで流行したネオ・ゴシック様式で1890年に建てられました。現在は明治学院歴史資料館や展示室・会議室として使用されています。煉瓦と木造との優れた連携構造が、建築界から高く評価されています。

Img_6854_2 記念館の裏側(北側)にある建物が、「インブリー館」です。1889年に、建築された典型的なアメリカン・コロニアル・スタイルの素朴な木造・瓦葺2階建てです。インブリー館は、W.インブリー博士にちなんで造られた建物で、かつては宣教師たちがすんでいて、現在は同窓会本部として使用されているそうです。   つづく

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2009年4月13日 (月)

白金から恵比寿へ 1. 「白金高輪駅」から「覚林寺」

白金から恵比寿へ 1.として記述します。

☆「白金高輪駅」から「覚林寺」へ

今回は、案内書(JTBパブリッシング発行「東京 下町・山手ウオーキング」)により、中見出し「レトロモダン(懐古的である反面近代的な)」で小見出しが「明治学院大学から白金・恵比寿へ建物ウオッチング」の道を歩きます。

4月7日(火)は、桜が満開で、晴天にも恵まれました。スタートは、東京地下鉄(東京メトロ)南北線と、都営地下鉄三田線が走る「白金高輪駅」です。白金の地名は、1400年ごろにこの地に住んでいた豪族が、渋谷に住んでいた「黄金長者」に対抗して、「白金長者」と呼ばれていたことに由来するといわれています。2000年9月に開通したこの路線の利用者は、一日にほぼ7万人です。

Img_6837 地下鉄のアナウンスが、何か馴染まない感じがします。「白金」を、私は「しろがね」と読むものと考えていたのに対して、「しろかね」と読んでいることに気づきました。しろがねは、「銀」を連想し、しろかねなら現代ではより価値の高い「白金…しろかね…プラチナ」を連想するということで、地元民から支持されているためのようです。

Img_6838 白金高輪駅の開業前の仮称は、「清正公前(せいしょうこうまえ)」だったImg_6839 Img_6842 のを、清正公(覚林寺)の位置が駅からImg_6843_2 400m以上離れていることから、白金と高輪の中間点にあることを考えて、この駅名になったようです。

Img_6840 駅の南側に出ると道幅の広い桜田通りにでます。400m北に(品川方面)に向かい通りを横切ると右側に清正公との別名がある「覚林寺」に到着します。。この寺院のある場所は、かつての熊本藩の中屋敷でした。日蓮宗の寺院で、虎退治でも有名な豊臣秀吉の家Img_6844 臣であった加藤清正(1562-1611年)の位牌や像を祀ることから清正公と 呼ばれ、勝負の守り神として信仰されています。

1845年の弘化2年の大火で全焼した覚林寺は、山門はImg_6845 1856年に再建された最古の建築物で、1865年再建の公堂とともに安土桃山時代を代表する貴重な建造物です。

覚林寺の北側の桜田通りに面して、高層建築が立ち並ぶ風景も壮観です。   つづく

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2009年4月10日 (金)

ブルジャヤ・ヒルも変化の兆し

マレーシアでの7度目のロングステイ

☆ブルジャヤ・ヒルも変化の兆し

セキュリティーを考えると、高原リゾートの「ブルジャヤ・ヒル」は、安全な場所といえます。広大な山々がこのリゾートの所有地で、山道は一本しかないうえに、山道には2つの検問所が置かれているからです。

Img_6810 セキュリティー上のメリットはあっても、リゾート客はリゾート内に囲い込まImg_6809 れた形になりますので、外界との接触が絶たれた気分になることもあります。リゾート内には、銀行・スーパーマーケットや郵便局もありません。この気分を変えるには、車をチャーターして、近くのベントンの街(マレーシア半島の東海岸の大都市ケアンタンへの中継路になる街。中国系が多く住む街。)に出て本格的な中国料理を食べ、近くのスーパーマーケットでリゾート内よりかなり安価なビールや果物を仕入れて帰ることです。ゴールデン・コート(麗晶閣大酒楼)は、馴染みになりました。

今回は台北在住の日本人の知人が、レンタカーを運転してリゾートに来ていましたので、便乗させてもらって中華料理を楽しみました。街のドライブ中に道端の果物屋でバナナ・オレンジ・ザボンなどを購入しましたが、8月に感激したマンゴスティンは見当たりませんでした。一般の日本人は60歳を過ぎると、マレーシアではレンタカーを借りることができませんが、台湾在住の知人はこのルールとは関係なく行動できたようです。

最近のブルジャヤ・ヒルは変わりつつあります。フランスのシャトー風の300人は収容できる大ホテルの建築が終わり、内装工事中の感じです。コマー・ホテルと比べ、近代的な感じを与えるものの、部屋が小さいのが難点との関係者の発言もあります。

Img_6826 ゴルフ場の手前の「ラビット・パーク」の隣で大きな建物が建築中です。シImg_6822 Img_6827 ョッピング・センターになるとの話でした。Img_6830 また、動物たちとの触れ合いを目的としたラビット・パークをさらに充実させて、ラクダやロバなどを連れてくる計画もあるようです。家族連れを喜ばせたい考えのようです。そうなると、多くの日帰りの観光客を呼び込まねばならなくなって、セキュリティーに問題が出てくる可能性もあります。

半年前に「ブルジャヤ・ヒルは滞在するゴルファーの理想郷」と考えていましたが、状況は少しづつ変わってきています。果物の豊富なシーズンということを考えると、「7月のブルジャヤ・ヒル訪問」の方が2月より恵まれていると感じました。

この項終わり。

次回から「新・東京 下町・山手ウオーキング」を記述します。

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2009年4月 9日 (木)

バス道路を「散歩道」として活用

マレーシアでの7度目のロングステイ 2.として記述します。

☆バス道路を「散歩道」として活用

滞在するブルジャヤ・ヒルのコマー・ホテルは、城壁都市のような造りになっていて、ホテルの敷地内を歩くだけでも、かなりの運動量になります。唯一の不満は、周りが深いジャングルに囲まれているために、散歩道になる山道がないことです。ホテルの敷地を出るには、バス道路しかありません。

Img_6812 ホテルの近くには、高原リゾートらしく、ブルジャヤ・ヒルのいろいろな施Img_6816 Img_6817 設があります。北から順に、熱帯植物園、日本庭園や茶室を含む日本村、日本家屋のと入浴設備、兎パーク、ゴルフ場、国際会議場、ボーリング場やテニスコートなどのあるスポーツ・センター、プールおよImg_6819 Img_6818 び乗馬場などです。各施設はホテルを起点とした大・小の定期バスでつながれています。

定期バスを利用してゴルフ場に行き、カートに乗ってゴルフ・プレーをするだけでは、運動不足になりかねません。そこで気付いたのが、バス道路を「散歩道」に活用することです。たとえば、日本村に行くには、2000mの距離で150mほど上るかなり急勾配のバス道路ですので、息切れが心配です。そこで、この道を逆に「下り道として使えば、散歩道になる」と考えて、試してみました。確かに楽しい散歩道になりました。さらに下れば、ゴルフ場にも着きます。帰りの上り道は定期バスの活用です。

楽しく歩ける散歩道が増えて、ますます充実したブルジャヤ・ヒル生活になりました。   つづく

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2009年4月 8日 (水)

マレーシアでの7度目のロングステイ

マレーシアでの7度目のロングステイ 1.として記述します。

☆ブルジャヤ・ヒルのゴルフ場

日本の冬の寒さを逃れようと「7度目のマレーシア(ブルジャヤ・ヒル)でのロングステイ」を企てて、2月19日に出発し、3月6日に帰国しました。

2月10日まで南米のペルーを旅行していましたので、南米出発前に席の予約をしていたマレーシア航空の午前の便が運行中止になったことを知らずにいました。結局、午後1時半に出発するコタキナバル経由(待ち時間約1時間半)の便に搭乗して、10時間かけてクアラルンプルに着きました。南米旅行中にさらに長い飛行時間で、忍耐を覚えましたので、いらいらすることなしに到着しました。

クアラルンプルで買い物をしてから標高約700mの高原リゾートのブルジャヤ・ヒルに向かう予定で、市内繁華街ブキッ・ビンタンにある「ブルジャヤ・タイムズ・スクエア・ホテル」の1泊の予約をいれていました。このホテルに泊まると、目的地のブルジャヤ・ヒルにある「コマー・トロピカル・ホテル」までの割安料金の定期バスを利用することができます。

3度目となるコマー・トロピカル・ホテルは、顔なじみの従業員が増えて、我が家に戻ったような寛いだ気持ちになります。今回は滞在するホテルの部屋番号まで指定しましたので、ますます我が家のような気持ちになります。空っぽの大きな冷蔵庫のあるスイート・ルームで、約70平方mの広さの部屋です。リピーターということで、ホテル側が気を遣ってくれたのでしょうか、ソファーは新品に換わっていました。

Img_6832 濃い緑の山々と素敵なゴルフ場は、変わらず気持ちよく私たちを迎えてくImg_6834 Img_6836 れます。ペルーの砂地を見続けた目には、豊かな緑がいつもより輝いて見えます。ゴルフ場に一つだけ予想外のことが起こっていました。今や世界の「ゴルフ先進国」とも評価される韓国勢がこのリゾーImg_6806 Img_6807 トのゴルフ場「ブルジャヤ・ヒル・ゴルフ&カントリー・クラブ」に、目をつけていたのです。トレーニング用に最適な難しいゴルフ場ということで、大勢のプロを目指す男女の若者たちを数週間の単位で送り込んでいたのです。週日は貸切状態だったこのゴルフ場は、賑わって結構と思う反面、待たされるゴルフ場に変わる可能性もあって心配です。

今回は、マレーシアの通貨価値が下がっていて、前回の1リンギ33円から、1リンギ26-27円となり、日本人から見るとホテル料金やゴルフのプレー代金が下がった印象です。韓国のウオンも大幅に下がりましたが、リンギの値下がりもあって、韓国人のゴルフのトレーニングには最適の国と選ばれたのかもしれません。   つづく

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2009年4月 7日 (火)

日本人の目で見る「ペルー共和国」

新・南米ペルー紀行22.として記述います。

☆日本人の目で見る「ペルー共和国」

今回の旅を終えて、ペルーはやはり遠い国でした。南米までという距離の長さは大変なことで、成田空港からペルーの首都リマまでの航空時間は20時間を超えます。さらに、アメリカ経由の場合は、乗り継ぎするだけの通関業務で、3時間以上の余裕時間が必要になります。往復するだけで丸々2日間かかるわけです。

私たちは、同じラテンアメリカの文化を持つメキシコに7年半の駐在経験がありましたが、文化面からいっても、「遠い国」でした。

最近、日本人は「世界遺産」に強い興味を持っています。今回の旅が「リマ歴史地区」「クスコ市街」「マチュピチュ歴史保護区」や「ナスカの地上絵」の世界遺産見学があり、「チチカカ湖観光」までも加わったことに満足しています。さらに汽車の旅、遊覧船の旅に、セスナ機による空の旅も楽しめました。NHKのテレビ放送が力を入れている理由も分かります。私たちは2月11日に帰国しましたが、帰国を待っていたかのように、2月17日に、「隔週刊 NHK世界遺産100」のDVDマガジンの第一回配本が行われたのです。

その第一回配本が「マチュピチュ(ペルー) 空中都市の謎に迫る」で、今回旅した地域をたくさん含んでいます。マチュピチュは、フランスの「天使が舞い降りた修道院 モンサンミシェル」と共に人気を二分しているようです。遠い国であることが、夢を膨らませるからなのでしょうか。このDVDには、「ナスカの地上絵(ペルー)」「石の都 クスコ市街(ペルー)」「ピューマの街を歩く クスコ市街」「アンデス謎の文明 ティワナク(ボリビア)」「土の王国 チャチャン考古地区(ペルー北部)」と「百年刻みの花時計 ワスカラン(ペルー北部)」も含まれています。

ペルーには、プレ・インカ文明のナスカ、インカ文明のマチュピチュそしてスペイン文明の色濃いクスコや首都リマがありますので、その多様性に多くの日本人が興味をもつようです。ペルー独特の料理も、日本人の口に合うものは多いとおもわれます。

ペルー共和国の人口2790万人の中、日系人は推定で9万人といわれています。1899年の日本人移住が開始して、今年が110周年になります。日系人二世のアルベルト・フジモリ(日本名:藤森謙也。1938年生まれ。国立農業大学総長を歴任し、1990年ー2000年まで大統領職にあった。)に対する社会の評価は、二分されています。悪い評価は、人権侵害と汚職など。(現在刑事訴追されている)良い評価は、テロ組織を壊滅し治安を回復したことや貧民対策で学校・道路建設などが進んだことなどです。

大統領在職中の1996年に起こったテロ組織による「日本人24人を含む72人の大使公館拘束事件」の日本人全員の無事解放が、日本社会で高く称えられました。その評価もあって、日本からのODAをはじめとする援助資金も増えました。

カルロス・フジモリの長女のケイコ国会議員は、2011年の大統領選に向けて活動中です。父親の路線を踏襲したいようです。

第二次世界大戦中の日系人は、敵性国民として、冷遇されました。収容所に多くの人が入れられました。戦後はその苦い経験を生かすべく、「日本人が固まる生き方」を変えて、ペルー人との同化を心掛けているといわれています。

特記すべき日本人が二人いました。一人は、天野 芳太郎氏(1898-1982年)です。首都リマのミラフローレス地区に、1964年収集した土器・織物など約3万点の中の300点を展示する「天野博物館」を開設した人です。実業家として成功した彼は、ペルー北部のプレ・インカ時代の「チャンカイ文化の研究家」としても有名です。

もう一人は、元テレビのアナウンサーであるエッセイストの楠田 枝里子さんです。ドイツ人の数学者のマリア・ライヘ女史が、どのように「ナスカの地上絵」を守り、研究を続けていたか見事に描写した「ナスカ 砂の王国 地上絵の謎を追ったマリア・ライヘの生涯」の著者です。この書籍も「日本人のペルーへの憧れ」を刺激しているのかもしれません。現在は1995年に設立した「マリア・ライヘ基金」の責任者になっているようです。ペルー訪問前の一読をお薦めします。

この項終わり。   つづく

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