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2014年6月 2日 (月)

「日本現代史」 49. 1953-1973年(3)…高度経済成長…

海外ロングステイ先で歴史研究 121.として記述します。

☆ 「日本現代史」 49. 1953-1973年(3)…高度経済成長…

日本の経済成長は、1960年(昭和35年)の池田内閣による「所得倍増論」が打ち出される前の「神武景気」(1954年12月から1957年6月まで)や「岩戸景気」(1958年7月から1961年12月まで)から始まっていました。

神武天皇が即位した時代(紀元前660年)以来、例を見ない好景気という意味で、「神武景気」と名付けられたこの時代は耐久消費財ブームが発生して、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが「三種の神器」と呼ばれ人気を博しました。 神武景気を上回る好景気から、神武天皇よりさらに遡って「岩戸景気」と名付けられたこの時代は、電気機械・精密機械・自動車や新しい成長産業と呼ばれ始めた鉄鋼・化学・石油精製などの産業が支えたといわれています。また、技術革新による産業構造の変革期だったともいわれています。なお、NHKのテレビの本放送の開始は、1953年(昭和28年)の2月1日でした。

好景気によって、若年サラリーマン・一般労働者の収入が急激に増加して、国民の間に「中流意識」が広がりました。そして大企業のサラリーマンを「中産層」に押し上げていったのです。岩戸景気の終る頃の1956年度(昭和31年度)の経済白書に「もはや戦後ではない」と記されたのです。

1960年(昭和35年)に池田内閣が唱えた「所得倍増論」は、国が経済計画を作り、労働者は働くことに喜びを感じて熱心に働き、貧富の差がないままに国民が豊かになったのです。この点から皮肉を込めて、「日本は世界で唯一『成功した社会主義国』」と、表現されることもあるようです。

時代は変わりますが、1964年(昭和39年)の10月1日に、工事に5年間を掛けた東海道新幹線の東京・大阪間が開通しました。3800億円の工事費は、世界銀行からの借り入れで賄われました。10月10日には「東京オリンピック」が開幕しました。女子バレーボールで、日本代表がソ連を破って優勝した瞬間のテレビの視聴率は85%に達したといわれています。東京オリンピックは、成功裡に終わりましたが、開催に向けて行った高速道路建設が、首都・東京の景観を壊したと強く批判されています。   つづく

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2014年6月 3日 (火)

「日本現代史」 50. 1953-1973年(4)…高度経済成長…

海外ロングステイ先で歴史研究 122.として記述します。

☆ 「日本現代史」 50. 1953-1973年(4)…高度経済成長…

日本の爆発的な高度経済成長・神武景気は、1954年(昭和29年)に始まりましたが、1955年(昭和30年)には、通産省は「国民車」構想を打ち出しました。国民が所有できる自動車をつくれるようにメーカーに働きかけたのです。1958年には、富士重工が発売したエンジンの排気量が360ccの「スバル360」が価格面のメリットから人気を博しました。排気量が1000ccクラスでは、「トヨタのコロナ」と「ニッサンのブルーバード」が人気があり、頭文字「コロナのC」と「ブルーバードのB」をとった「BC戦争」と呼ばれる激しい販売競争が展開され、自動車産業は発展しました。乗用車が企業やタクシー会社のものとのイメージから、「マイカー時代」に入っていきました。

自動車産業の競争は、やがて企業合併や提携の動きに発展しました。1966年(昭和41年)、日産自動車とプリンス自動車が合併しました。また、同じ年、トヨタ自動車は日野自動車と提携し、翌年には今度はダイハツ工業とも提携して、両社はトヨタ・グループに入りました。

一方、造船など重機械産業では、「財閥解体」でいったん分割されていた旧三菱重工系の新三菱重工・三菱日本重工業と三菱造船の三社が、1964年(昭和39年)再び一緒になって「三菱重工業」になりました。さらに、GHQの命令で日本製鉄から八幡製鉄と富士製鉄に分割させられていた二社が、1970年(昭和45年)に合併して「新日本製鉄」が誕生しました。

さらに1971年(昭和46年)には、銀行業界六位の第一銀行と八位の日本勧業銀行が合併して、預金量が日本一となった「第一勧業銀行」が誕生しました。こうして、日本経済の発展と共に、企業は自力成長または合併で、企業規模を拡大していったのです。   つづく

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2014年6月 4日 (水)

「日本現代史」 51. 1953-1973年(5)…高度経済成長…

海外ロングステイ先で歴史研究 123.として記述します。

☆ 「日本現代史」 51. 1953-1973年(5)…高度経済成長…

工業が成長した一方で、日本の農業は衰退に向かいます。農家の子どもたちは農業を継ぐことを嫌って都会に出て、サラリーマンになりました。また、農家の主人も、現金収入を求めて出稼ぎに出ることが多くなり、農地は「かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん」に任される「三ちゃん農業」の時代になりました。1960年(昭和35年)から1970年(昭和45年)までの10年間に、全国の農家の戸数は70万戸減り、全就業者に占める農業従事者の割合も、29%から16%まで下がったといわれています。また、残った農家の大半は、専業ではない「兼業農家」になりました。高度成長は、農業の味方ではなかったようです。

高度経済成長は、日本の「若者文化」を大きく変えました。1964年(昭和39年)に、若い男性向けに創刊された週刊誌・「平凡パンチ」は、ファッションや音楽などアメリカ流のライフ・スタイルを日本に紹介しました。「アイビールック」やVAN、JUNなどのブランドが流行し、「ジーンズをはくファッション」も、日本に定着することになりました。

1967年(昭和42年)英国の極端な細身の身体で短いスカートをはく、ファッション・モデルのツイッギーが来日しました。膝上15cmのミニスカートに、日本の大人たちは度肝を抜かれましたが、すぐに日本の若い女性たちの愛用品になってしまいました。1970年(昭和45年)に、「銀座の歩行者天国」が始まりました。1971年には、「銀座にマクドナルドが進出」し、ハンバーガーを歩きながら食べる若者の文化も全国に広まったのです。日本の食文化の常識が大きく変容する時期でした。   つづく

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2014年6月 5日 (木)

「日本現代史」 52. 1953-1973年(6)…高度経済成長…

海外ロングステイ先で歴史研究 124.として記述します。

☆ 「日本現代史」 52. 1953-1973年(6)…高度経済成長…

1970年(昭和45年)には、大阪の千里で、アジアで初めての「万国博覧会」が開かれました。「人類の進歩と調和」をテーマに、世界77ヶ国が出展し、半年間の会期中に、6422万人の観客を集めました。岡本 太郎が設計した「太陽の塔」や、前年に米国のアポロ11号が地球に持ち帰った「月の石」が展示され、話題を呼びました。

神武景気(1954-1957年)と岩戸景気(1958-1961年)の後、1965年(昭和40年)11月から始まり1970年(昭和45年)7月までの57ヵ月間続いた好景気は、「いざなぎ景気」と呼ばれました。前例がないことを強調するために、日本の「国造り神話」に登場する日本を造った神様・「いざなぎの尊(みこと)」の名前まで動員されたのです。

高度経済成長は、日本経済全体に発展をもたらしたのは事実ですが、恒常的なインフレをはじめさまざまな「歪(ひずみ)」も派生させてしまいます。大都市の工業地帯では工場からの排煙・排水・廃棄物が大きな問題になり、「公害」を発生させました。農村から都市に多数の人たちが移り住み、新興住宅地が広がりました。そこから都心へ通勤する人が増えて、「殺人的なラッシュ・アワー」も生まれました。新興住宅地には、子どもたちが多数生まれ、幼稚園・保育所・小中学校・公的な病院などの不足は、深刻となるのです。道路も未整備のまま、各所で「大渋滞」が日常化してしまいます。この悪化した生活環境を改善するため、さまざまな「住民運動」や「消費者運動」もこの時代に盛んになりました。

アジアでは、ベトナム戦争(1960-1975年)が激しさを増した時代でもありました。若者たちの中には、既成の概念・既成の秩序に反旗を翻す大学生たちも生まれました。かつて、貧しさの中から立ち上がった若者が時代の共感を得ましたが、高度経済成長の「豊かな社会」でも「不満な若者が生まれる」という事実を日本中に知らしめました。1973年(昭和48年)に勃発した「第四次中東戦争」を機に、アラブ産油国が「原油の減産と大幅な値上げ」を行ったいわゆる「第一次オイル・ショック」の影響で、日本の高度成長時代は終りました。

池上さんは、「第九章のその後」で、次の記述をしています。

「日本の高度経済成長を象徴する業態だったスーパーマーケットは、やがて転機を迎えます。急激な店舗拡大路線は、多額の資金を金融機関から借り入れることで成り立っていました。しかし、1990年代の金融不安によって、金融機関の貸し渋りが発生すると、大手のスーパーマーケットでも経営危機に直面しました。…スーツなら安売り紳士服店、カジュアルな衣料ならユニクロというように、商品ごとに専門店が登場しました。…個性的な店が求められるようになってきているのです。」…と。   つづく

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2014年6月 6日 (金)

「日本現代史」 53. 1946-2004年(1)…「公害」…

海外ロングステイ先で歴史研究 125.として記述します。

☆ 「日本現代史」 53. 1946-2004年(1)…「公害」…

池上 彰著・「そうだったのか!日本現代史」第10章は、1946年(昭和21年)富山県神通川流域に発生した「イタイイタイ病」から始まります。高度経済成長で汚染がひどくなるまで、辞書に「公害」という言葉が載っていなかったのですが、岩戸景気(1958-1961年)の頃から頻繁に使われるようになりました。ところが、公害は終戦直後の1946年から顕在化していたのです。第10章の表題は、「『公害』という言葉が生まれた」です。

イタイイタイ病は、富山市の萩野病院・萩野 昇院長が1946年に発見しました。全身に痛みを感じ、ひどいときには咳をしただけで肋骨が折れるような症状が出る病気でした。入院してくる多数の患者が「痛い痛い」と苦しむところから、「イタイイタイ病」と名づけられました。患者たちは、リウマチ・脊椎カリエス・骨軟化症などと診断されていましたが、神通川の水を田んぼの水に使ったり、飲料水にする地域に患者が集中したことから、専門家による調査が始まりました。

調査の結果は、農作物にも人体にも、カドミウム・亜鉛・鉛が含まれていることが分かり、「カドミウムを中心とする重金属の慢性的中毒」という見解が、患者発生から15年後の1961年(昭和36年)にまとまりました。神通川上流の三井金属鉱業・神岡鉱山の排水に含まれているカドミウムが原因でした。カドミウムは、体内でカルシウムと置き換わり、骨を侵します。特に女性は、骨のカルシウムが溶け易いため、患者数も多数にのぼりました。

神岡鉱山側は、「カドミウム無害説」や「ビタミンD欠乏説」などで反論し、因果関係の確定や患者の救済は進みませんでした。1968年(昭和43年)5月に「公害病」に認定されましたが、患者たちが訴訟を起こすまで、事態の進展はありません。1971年6月富山地裁が原告勝訴を言い渡しました。これに納得しない三井金属鉱業は控訴しましたが、名古屋高裁の裁定もあって、会社側は上告を断念し、判決は確定したのです。原因企業の責任を別にしても、行政も患者の救済に乗り出さなかった事実は、後日政府の責任として、強い批判を受けることになりました。   つづく

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2014年6月 9日 (月)

「日本現代史」 54. 1946-2004年(2)…「公害」…

海外ロングステイ先で歴史研究 126.として記述します。

☆ 「日本現代史」 54. 1946-2004年(2)…「公害」…

1956年(昭和31年)4月21日、熊本県水俣市にある新日本窒素肥料(1965年に同社は、「チッソ」に社名変更したので、今後は「チッソ」と呼称します)付属病院に5歳の少女が運び込まれました。患者の症状は、手足が痺れ・言葉がはっきりせず・意識が朦朧とするという特殊なものでした。8日後に妹が同じ症状で入院、近所にも同じ症状の患者がいることも分かったのです。付属病院の細川院長は、水俣保健所に「原因不明の中枢神経疾患が多発している」と、報告しました。これが、後に「水俣病」として有名になる病気の、公式確認です。

同じ年の5月16日に、地元の熊本日日新聞に、「水俣に子供の奇病ー 同じ原因か ネコにも発生」という見出しで報じられ、広く知られるようになりました。5月28日には水俣市の保健所・市役所・医師会・チッソ付属病院・市立病院などによって、「水俣市奇病対策委員会」が設置され、対策に乗り出しました。すぐに30人の患者が見つかりましたが、患者の家はすべて漁業を営み、水俣湾周辺の漁村に集中していました。病因が判明するまでは、「伝染病」ではないかと、患者の家族は「差別」にも悩まされたのです。8月になって、委員会は熊本大学医学部に奇病の原因究明と研究を依頼しました。

明治時代に水俣市に誘致され、電気化学工場を建設することからスタートした「チッソ」は、水俣市民の多くが働く会社でした。また、「チッソ」の関係会社も多く、水俣市はいわゆる「チッソの企業城下町」でもあったわけです。熊本大学の研究班が、「チッソの工場廃水」をサンプルに欲しいと申し入れても、「チッソ」は、企業秘密を理由に断り、調査研究は難航しました。この間にも被害は進んでいたのです。

1957年(昭和32年)8月、熊本県水産課は、詳しい因果関係は分からないものの、状況から見て「チッソ工場の廃水による魚介類の汚染が、奇病の原因」と考えました。そこで、食品衛生法によって、漁獲禁止・工場廃水停止を行おうとして、厚生省の意向を質しました。これを、厚生省が認めなかったために、後日後悔することになってしまったのです。    つづく

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2014年6月10日 (火)

「日本現代史」 55. 1946-2004年(3)…「公害」…

海外ロングステイ先で歴史研究 127.として記述します。

☆ 「日本現代史」 55. 1946-2004年(3)…「公害」…

後に「水俣病」と名付けられた公害が発生したのは、1956年(昭和31年)4月で、「水俣市奇病対策委員会」が設置されたのは、5月下旬でした。ところが発生源と疑われていた肥料工場を水俣市に持つ「チッソ」の協力を得られず、調査は難航しました。さらに、「チッソ」は、1958年(昭和33年)9月には、廃水の色を変える工作・「汚染隠し」まで行って、責任逃れをしました。

1959年(昭和34年)7月になって、熊本大学医学部の研究班が「水俣病が有機水銀中毒であること」をつかみ、チッソ水俣工場の工場廃水中の化学物質の中に水銀が含まれていると推定しました。有機水銀は体内に入ると全部が吸収され、血流に乗って全身を回り、脳の内部に入って神経細胞に付着・脳神経細胞破壊をするのです。

研究結果が発表されると、水俣市の鮮魚小売商組合は、「水俣湾とその近海でとれた魚は、一切買わないこと」を決議しました。水俣湾の漁民は、生活の糧を奪われることになり、怒りは「チッソ」に向けられました。8月から11月にかけて、排水停止を求める漁民による「チッソ」への漁業補償要求や漁民による工場乱入・施設破壊まで起こりました。「水俣市はチッソの企業城下町」だったからでしょうか、一方では同年11月に水俣市長・商工会議所・農協・チッソ労組・地区労など28団体による「水俣工場の排水停止は市民全体の死活問題になるので、排水停止は行わないように」との陳情が行われました。

熊本大学の「有機水銀説」に対して、東工大の清浦教授などから「有機アミン説」・「爆薬説」・「農薬原因説」などが提起され混乱しました。1959年(昭和34年)には、厚生省の食品衛生調査会は、「水俣病の原因物質は有機水銀化合物である」と、答申しました。厚生省は、水俣病については通産省に対策をとるように求めていました。「産業第一主義の通産省」だったからでしょうか、「チッソ」を守る立場にたって、対策をとろうとしませんでした。また、厚生省も強い態度をとらなかったのです。両省とも、「患者の生命を守るため」の行動をとらない「無責任体制」の官庁だったといわざるをえません。

「チッソの廃水が原因」という政府見解が確定するのは、発生から実に12年後の1968年(昭和43年)でした。   つづく

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2014年6月11日 (水)

「日本現代史」 56. 1946-2004年(4)…「公害」…

海外ロングステイ先で歴史研究 128.として記述します。

☆ 「日本現代史」 56. 1946-2004年(4)…「公害」…

1957年(昭和32年)から三重県の四日市市には、石油の精油所が次々に建設され、石油コンビナートが完成しました。この頃から四日市沖合の伊勢湾でとれる魚が異臭を放つようになりました。魚の値段は下がり、漁民に打撃を与えました。やがて被害は、「海」から「大気」に及んだのです。石油コンビナートから出る「亜硫酸ガスなどの有毒ガス・悪臭が市民を脅かします。

1959年(昭和34年)頃から、コンビナートと隣接する塩浜地区で、喘息患者が激増しました。「四日市喘息」と呼ばれるようになりました。塩浜地区の小・中・高校では夏でも窓を開けられず、エアコンが普及前の時代でしたので、教室は「焦熱地獄」となっていたのです。コンビナートの個々の企業は、法律に基づいた排出基準を守っていますので、責任は無い顔をします。企業が集中した場合、排煙に含まれる「硫黄酸化物などの量」は膨大となって人体に悪影響を与えたのですから、行政は迅速に対策を講じなければなりません。

ところが、石油コンビナートのおかげで繁栄していると考える地元の四日市市や三重県は、抜本的な対策をとろうとせず、喘息患者は増え続け、死者まで出る状況になりました。被害発生後8年を経た1967年(昭和42年)9月になって、喘息患者がコンビナートの中の6社を相手取り、損害賠償を求める「四日市公害訴訟」が始まりました。この裁判はさらに5年後の1972年(昭和47年)7月原告が勝訴し、その後、原告以外の患者も同じように救済されることになりました。加害者の企業ばかりでなく、「行政の怠慢さ」が問われることになった公害でした。   つづく

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2014年6月12日 (木)

「日本現代史」 57. 1946-2004年(5)…「公害」…

海外ロングステイ先で歴史研究 129.として記述します。

☆ 「日本現代史」 57. 1946-2004年(5)…「公害」…

1956年(昭和31年)に、熊本県水俣市に発生した「水俣病」の原因追求・防止対策がまだ進まない状況にあった1965年(昭和40年)に、新潟県阿賀野川流域でも「水俣病」と似た症状の患者が見つかりました。後に「新潟水俣病」と呼ばれます。こちらの原因は、昭和電工・鹿瀬(かのせ)工場における、アセトアルデヒドの製造工場の廃水による「水銀中毒」でした。昭和電工は、自らの責任を認めようとせず、1964年に起きた新潟地震で流出した農薬が川に流れ込んだものと、反論したのです。

1967年(昭和42年)6月、患者が昭和電工を相手どり、損害賠償請求の訴訟を、新潟地裁に起こしました。この訴訟は、「公害病の初の訴訟」といわれています。1946年(昭和21年)に発生した「イタイイタイ病」、1956年(昭和31年)熊本県・水俣市に発生した「水俣病」、1959年(昭和34年)から始まった「四日市喘息」そしてこの「新潟水俣病(第二水俣病ともいう)」の4つを合わせて「四大公害病」と呼びます。

1959年(昭和34年)11月に、厚生省の食品衛生調査会が「水俣病の主因をなすものは、ある種の有機水銀化合物」と答申した翌日に、解散させられてしまいました。池田 勇人通産相が「有機水銀がチッソから流出したという結論は早計」発言までしていました。通産省の攻勢で、厚生省が怖気づき「政府の統一見解を出すチャンス」を失ってしまいました。発生後9年経った1968年(昭和43年)9月になって、政府は漸く「水俣工場の廃水が水俣病の原因」と認めたのです。

チッソの責任が追求されました。1976年(昭和51年)、吉岡 喜一元チッソ社長、西田 栄一元水俣工場長が「業務上過失致死傷の罪」で、起訴されました。この刑事裁判は最高裁判所までいき、1988年(昭和63年)に二人の被告に禁固二年、執行猶予三年の有罪判決が確定しました。1973年(昭和48年)3月に、水俣病患者がチッソに損害賠償を求める裁判で、熊本地裁は、「チッソの全面敗訴」の判決を言い渡しました。チッソは同じ年の7月、裁判の原告以外も含めた水俣病患者に、判決の賠償金・一時金に加え、治療費・介護費などを支払うことを盛り込んだ「補償協定」に署名したのです。

莫大な補償費用が必要となりました。チッソは会社倒産の危機に瀕しましたが、国・熊本県・金融機関などの支援を受けて、存続しました。   つづく

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2014年6月13日 (金)

「日本現代史」 58. 1946-2004年(6)…「公害」…

海外ロングステイ先で歴史研究 130.として記述します。

☆ 「日本現代史」 58. 1946-2004年(6)…「公害」…

1956年(昭和31年)に熊本県水俣市で発生した「水俣病」は、長い訴訟の後・1973年(昭和48年)3月の熊本地裁の判決で、「チッソの全面敗訴」が決りました。チッソは、元社長と元水俣工場長の有罪が確定し、会社倒産の危機に瀕しながらも「莫大な補償費用」を払い続けています。

一方、水俣病発生の原因追求や患者救済に、真剣に取り組んでこなかったかに見える「国の責任」はどうなるかの訴訟も熱を帯びました。1990年(平成2年)9月、東京地裁は、「水俣病東京訴訟」で、「和解」を勧告しました。国は和解を拒否しました。理由は「国は、当時規制をする権限をもっておらず、水俣病の原因物質も明らかになっていなかった状況のもとで、行政指導を中心にできる限りの対応をしたので、水俣病の発生、拡大の防止に関して賠償責任は無い」というものでした。和解拒否という国の方針と、和解を求める患者の板挟みになった環境庁・山内企画調整局長が自殺するという悲劇もおきたのです。

なお、国の「公害問題」に対応する窓口は、次のように変わりました。1961年(昭和36年)に厚生省に「「公害係」が設置されました。1964年(昭和39年)厚生省に「公害課」を新設し、政府は「公害対策本部」を設置しました。1967年(昭和42年)には、国が公害対策に取り組むことを定めた「公害対策基本法」が施行されたのです。この法律の対象は、大気汚染・水質汚濁・騒音・振動・地盤沈下・悪臭の6種類でした。そして、1971年(昭和46年)7月に、厚生省を中心に11の省庁から500人を集めて、「環境庁」が発足したのです。実質的な初代長官の大石 武一の初仕事は「尾瀬の自然保護」でした。中止させる権限はなかったものの、大石長官のリーダーシップで、「尾瀬・只見スカイ・ラインの建設工事」を中止」させました。

1995年7月、日本社会党委員長・村山 富市の組閣した連立政権が誕生すると、水俣病に対する国の方針が変わり、「和解に応じた」のです。加えて、村山首相は、「心から遺憾の意を表したい」と患者に謝罪したのです。   つづく

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2014年6月16日 (月)

「日本現代史」 59. 1946-2004年(7)…「公害」…

海外ロングステイ先で歴史研究 131.として記述します。

☆ 「日本現代史」 59. 1946-2004年(7)…「公害」…

1956年(昭和31年)熊本県水俣市で起こった「水俣病」は、当時、国は責任を認めず、1990年10月に東京地裁・熊本地裁・福岡高裁などの「和解勧告」を日本政府は「拒否」しました。ところが、国の頑なな態度は、社会党の村山内閣の誕生で転換され、1996年(平成8年)5月に東京高裁の和解勧告を受けて、国は「和解」を受け入れました。

原告は、国と県に対する訴えを取り下げましたので、「国の責任は明確にされません」でした。原告が和解の道を選んだのは、訴えから16年も経って、原告の患者たちの高齢化が進んだためといわれています。ただし、関西に移り住んだ水俣病患者だけは、国と熊本県の責任を明らかにしたいと、「和解を拒否」して大阪高裁に訴訟を起こしていました。2000年(平成12年)4月、大阪高裁は「国と県の責任を認める判決」を言い渡しました。

しかし国は責任を認めず、最高裁に上告したのです。最高裁は、2004年(平成16年)10月大阪高裁の判決を支持して、国と県の責任を認めました。裁判は決着し、汚染された水俣湾から魚が湾外に出ないように張られた「仕切り網」は1997年(平成9年)に撤去されたものの、「水俣病問題」は、決着したとはいえません。ヘドロの除去は完全とはいえませんし、患者の病が完治したわけではありませんから。

池上さんは、次の点にも焦点を当てていました。チッソ水俣工場で働いていた従業員の立場です。自分の働いている工場の廃水が原因であることに気づいていても、終身雇用のもとで、自分が働く「企業の犯罪」を告発できないことで、被害を広げてしまった無念さです。

1997年12月、京都で「地球温暖化防止会議」が開かれ、今後各国がどう対応すべきかの道筋を描く「京都議定書」が採択されました。日本をはじめ世界164カ国が批准しましたが、大国・米国が、「二酸化炭素の防止対策は、自国の経済発展に悪影響をおよぼす」と主張して、実施に反対しているのが、気がかりな点です。また、中国の大気汚染や水質汚染もなおざりに出来ない問題です。

環境か経済発展かという問題は、世界的な規模での協力が望まれる「全人類的な選択」が必要になるでしょう。   つづく

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2014年6月17日 (火)

「日本現代史」 60. 1945-2001年(1)…沖縄…

海外ロングステイ先で歴史研究 132.として記述します。

☆ 「日本現代史」 60. 1945-2001年(1)…沖縄…

池上 彰著・「そうだったのか!日本現代史」第11章は、太平洋戦争末期・1945年(昭和20年)3月23日の米海軍による沖縄本島への艦砲射撃から始まった沖縄の歴史です。第11章の表題は「沖縄は返ってきたけれど」です。

太平洋戦争で、太平洋の島々を守る日本軍を次々に全滅させた米軍は、沖縄攻略戦争を「アイスバーグ(氷山)作戦」と名づけ、1500隻の艦船と、延べ54万8千人の兵員を投じて沖縄に向かいました。1945年3月23日の米海軍による艦砲射撃からはじまり、3月26日には慶良間諸島に上陸しました。追い詰められた住民700人もが「集団自決」するという悲惨な出来事が起こりました。4月1日には、沖縄本島に米軍が18万3千人の部隊で中部の西海岸に上陸し、住民を巻き込んだ激しい地上戦が始まったのです。

迎え撃つ日本軍は、旧王城・首里城の地下に「司令部」を設置しました。沖縄で動員された地元住民・防衛隊員・学徒兵などを含めても、11万6千人と劣勢でした。十三歳以上の男子は「兵士」に、十五歳以上の女学生は「看護要員」になるという総力戦だったのです。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高女の生徒計219人は、沖縄南部の南風原(はえばる)陸軍病院の看護活動のために動員され、「ひめゆり学徒隊」と名づけられました。陸軍病院は、米軍の攻撃で破壊され、看護にあたっていた生徒たちのほとんどは、米軍の艦砲射撃などで死亡してしまったのです。終戦後、この悲劇は「ひめゆりの塔」という題名で映画化され、日本人の多くが知るところとなりました。   つづく

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2014年6月18日 (水)

「日本現代史」 61. 1945-2001年(2)…沖縄…

海外ロングステイ先で歴史研究 133.として記述します。

☆ 「日本現代史」 61. 1945-2001年(2)…沖縄…

1945年(昭和20年)4月1日に、18万3千人の部隊で沖縄に上陸した米軍は、地上戦を開始しました。米軍による艦砲射撃・砲撃のすさまじさは「鉄の暴風」と呼ばれるほどで、兵士ばかりでなく住民多数が戦争に巻き込まれて死亡しました。

沖縄の地上戦も末期になると、日本軍は「醜態」を晒します。洞窟に隠れている住民を追い出して自分たちが隠れるという行動をとったのです。洞窟の中に住民と隠れているときに、幼児が泣き出すと、見つかるのを恐れて、「幼児殺害」を命じました。米軍に降伏しようとする日本兵や住民は、後ろから日本軍によって、「射殺」されることもありました。さらに「集団自決強要」なども発生しました。上陸した米軍の歩兵は、洞窟に手榴弾を投げ込んだり、火炎放射器で焼き尽くすなどで、一方的な戦いになってしまったのです。

6月23日、沖縄守備軍の牛島 満司令官が、沖縄南端の糸満市の摩文仁(まぶに)に追い詰められ、自決しました。沖縄にとっての「終戦記念日」は、8月15日ではなく、日本軍の組織的な抵抗が終った6月23日だったのです。池上さんは司馬 遼太郎著・「街道をゆく 6 沖縄・先島への道」に書かれている次の言葉を引用しています。

「軍隊というものは本来、つまり本質としても機能としても、自国の国民を守るものではない、ということである。軍隊は軍隊そのものを守る。」…と。

味方のはずの日本軍に見捨てられたのに、「残忍な地上戦を展開した敵」のはずの米軍に助けられた沖縄県民も多かったという事実もあったのです。米軍は、「非戦闘員の沖縄県民救助」のため、5千人の担当者や住民用の食料・医薬品を用意してたとのことです。

現在、沖縄県・摩文仁の丘に、「平和の礎」が造られていて、沖縄戦で犠牲になった23万7969人の名が刻まれています。うち、米軍兵士が1万2千人あまり、日本軍兵士6万5千人あまり、地元の防衛隊員2万8千人、住民13万人あまりです。   つづく

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2014年6月19日 (木)

「日本現代史」 62. 1945-2001年(3)…沖縄…

海外ロングステイ先で歴史研究 134.として記述します。

☆ 「日本現代史」 62. 1945-2001年(3)…沖縄…

1945年(昭和20年)6月23日は、沖縄に上陸した米軍の猛攻で日本軍が組織的な抵抗を終えた「沖縄の終戦の日」でした。沖縄は、本土の終戦の日・「8月15日」より前に戦いは終っていたのです。生き延びた沖縄の住民は、16ヵ所に設けられた収容所に入れられ、米軍から服や食料を支給されました。

住民を収容所に入れて、無人になった沖縄に、米軍は「日本本土攻撃準備」のため「巨大な軍事基地」を次々に建設しました。米軍は必要な土地を確保した上で、「不要な土地は住民に返す」という方法をとりました。基地造りのために、土地を奪われた住民は、米軍の指定する場所に移住するしかなかったのです。「沖縄に米軍基地が多い」という最初の理由は、この頃の米軍の行動によったものでした。

日本全体が降伏した後も、沖縄は米軍が直接統治する「軍政」が続きました。東西冷戦が激化する中で、米軍は沖縄を「太平洋のキーストン(要石)」に位置づけました。沖縄は台湾に近く、中国と台湾の紛争が起きた場合、沖縄の米軍基地から米軍がすぐに駆けつけられます。1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が始まってからは、24時間自由に使える基地の存在は、米軍にとって貴重なものになりました。基地は増えこそすれ、減ることはなかったのです。

それでも、米軍の軍政から、1950年12月には、「琉球列島アメリカ民政府(USCAR)」が設置されました。と言ってもそれは建前だけで、実際の民生長官は、東京の極東軍総司令部が兼務し、副長官は「現地沖縄の軍司令官」だったのです。

1951年(昭和26年)9月8日、「サンフランシスコ講和条約」が結ばれ、日本は独立を果たしましたが、「沖縄は米国の支配下」に残され切り離されてしまったのです。   つづく

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2014年6月20日 (金)

「日本現代史」 63. 1945-2001年(4)…沖縄…

海外ロングステイ先で歴史研究 135.として記述します。

☆ 「日本現代史」 63. 1945-2001年(4)…沖縄…

1951年(昭和26年)9月の「サンフランシスコ条約」締結後も、米国の支配下に置かれた沖縄は、1952年(昭和27年)4月に、沖縄住民を代表する「琉球政府」が発足しました。米国は、限定的な住民自治は認めたのです。沖縄県議会に当たる「立法院」と、「裁判所」が置かれました。しかし、琉球政府は、あくまで米国民政府に従わなければならない存在でした。行政の長つまり県知事に当たる「主席」も、米国の民生副長官が任命したのです。1957年(昭和32年)からは民生長官と副長官に代わって、米国の最高責任者として「高等弁務官」が置かれ、「主席」は高等弁務官が任命する仕組みに変わりました。

そして、米軍の支配下で、「沖縄はすっかり『アメリカ』に変わった」のです。公用語は英語。通用する通貨は「米ドル」。車は右側通行。沖縄は「外国扱い」になって、日本の本土との往復にも、パスポートとビザが必要になりました。

1953年(昭和28年)4月、米軍は「沖縄の基地拡充」に乗り出しました。新たな基地建設のために「土地収用令」を公布して、沖縄住民の地主から土地を強制的に取り上げる契約を結び、基地を広げていきました。米軍の要求を拒否する者は、銃剣で脅し、抵抗する者は逮捕されたといわれています。抗議する沖縄住民に対し米軍は、「この島は米軍が血を流して日本軍から分捕ったものである。きみたちには、何の権利もない。イエスもノーもない」と、言い放っていました。

1954年(昭和29年)、米国は、強制的に契約させた土地の地代を20年間分一括して支払う「永代借地権」を取得しようと動き出しました。これに対し、地主はもとより、沖縄県民全体が激怒しました。「土地を永久に奪われる」と感じた人々は、各地で激しい抗議行動を展開しました。これは、沖縄の米国支配に対する初の公然たる反対運動の始まりで、「島ぐるみ闘争」と呼ばれました。   つづく

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2014年6月23日 (月)

「日本現代史」 64. 1945-2001年(5)…沖縄…

海外ロングステイ先で歴史研究 136.として記述します。

☆ 「日本現代史」 64. 1945-2001年(5)…沖縄…

日本本土から切り離され、米軍の基地に囲まれ、米兵による犯罪が多発していた沖縄では、住民が「米軍支配」の悲哀を味わう毎日でした。沖縄住民代表の立法院や主席の権限が限られる中で、1960年(昭和35年)には、「日本復帰運動」が始まりました。「沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)」が、結成されたのです。

1964年(昭和39年)11月に、沖縄住民の復帰運動が高まる中で「沖縄返還」を最大の政治課題に掲げた佐藤 栄作内閣が発足しました。翌1965年1月、佐藤首相は訪米し、沖縄返還を申し入れました。さらに、8月19日に佐藤首相は、現職の首相として戦後初めて沖縄を訪問し、「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、日本の戦後は終らない」と言明しました。このように日本復帰の動きは具体化し始めたのです。

1967年(昭和42年)11月に行われた日米首脳会談で、小笠原諸島の一年以内の返還が決りました。小笠原諸島も、米軍の支配化にあったのです。翌1968年6月、小笠原諸島は日本に返還され、東京都小笠原村になりました。この首脳会談で、「沖縄返還を両三年以内にメドをつける」ことも、合意されました。この合意の意味は、「数年以内に返還するのではなく、数年以内にいつ返還するかを決める」というものでした。これをきっかけに、沖縄返還に向けた具体的な話し合いが始まりました。

1968年(昭和43年)5月、沖縄返還に関する日米協議が始まり、翌1969年(昭和44年)の佐藤首相・ニクソン大統領会談で、「1972年(昭和47年)の核抜き、本土並みの沖縄返還」が決ったのです。   つづく

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2014年6月24日 (火)

「日本現代史」 65. 1945-2001年(6)…沖縄…

海外ロングステイ先で歴史研究 137.として記述します。

☆ 「日本現代史」 65. 1945-2001年(6)…沖縄…

沖縄県復帰協議会(復帰協)が1960年(昭和35年)に結成され、沖縄の日本復帰運動が高まっていた1960年代は、米軍にとっても沖縄は「死守すべき軍事基地」でもあったのです。1965年に米国・民政府・広報室が自らの立場を次のように説明していました。  「米国は、日本、韓国、台湾、フィリピンおよびいくつかの東南アジアとの間に相互安全保障条約を締結している。これらの条約は、米国に対して他からの侵略や行動からこれらの国を防衛することを委任している。」…と。

日本国土にいる米軍は、日本のみの防衛について責任があるだけだが、沖縄にいる米軍は、西太平洋全域にわたって防衛する責任をもっているとの説明もありました。

1965年(昭和40年)2月、ベトナム戦争の激化に伴い、米軍は北ベトナムへの空爆を開始しました。7月になると、沖縄の嘉手納基地から米軍のB52爆撃機が直接ベトナムへ出撃しました。沖縄は、北ベトナム爆撃の基地になったのです。

戦争の影が沖縄を覆いましたので、沖縄県民は「平和な沖縄」の実現のために、「平和憲法」のある日本本土への復帰運動は強まりました。沖縄の世論に押される形で、米国は1968年(昭和43年)、琉球政府主席を住民が選挙で直接選ぶ「公選制度」を導入しました。選挙はこの年の11月に行われ、投票率は90%に達するという住民の思いが強く現れる数字になりました。この選挙で、復帰協や革新政党の応援を受け、「即時無条件全面返還」を掲げた屋良 朝苗(やら ちょうびょう)氏が当選したのです。   つづく

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2014年6月25日 (水)

「日本現代史」 66. 1945-2001年(7)…沖縄…

海外ロングステイ先で歴史研究 138.として記述します。

☆ 「日本現代史」 66. 1945-2001年(7)…沖縄…

1969年(昭和44年)11月の佐藤首相とニクソン大統領の会談で、「1972年の沖縄返還」が決っていましたが、1970年の12月20日未明に、不幸な「コザ暴動」が起こってしまいました。米軍基地で働く沖縄の男性を、米兵の車がはねて怪我を負わせたのがきっかけでした。その9日前にも、糸満市で米兵が女性をはねて死なせ、米軍の軍事法廷が、「無罪判決」を言い渡していたのです。集まった多くの人たちが「また、同じことになるのではないか」という思いを持っていたのです。そのとき、すぐそばで別の米兵が事故を起こしました。さらに住民の怒りに火をつけました。怒った群衆に脅えた米軍のMPが威嚇発射をしたのです。

これが暴動を引き起こしてしまいました。群衆は5000人に膨れ上がり、駐車している米兵の車をひっくり返したり、放火したりしたのです。死者の出る惨劇にはなりませんでしたが、米軍側に61人、日本側に27人の負傷者が出てしまいました。

それでも予定通り、1972年(昭和47年)5月15日午前0時に、「沖縄が日本に復帰」しました。正しくは、米軍が政治を行う権限を、日本に返したのですから、「施政権の返還」と表現されるべきです。沖縄が米軍の支配下に入って、27年後のことでした。琉球政府は、沖縄県庁に移行しました。

返還当時は、円高が進んで米ドルの価値が下がった時代でした。1ドルは360円から308円に下がっていたのです。沖縄の住民が持っているドルの価値が低くなると住民が打撃を受けると、日本政府は考えました。復帰の前年の1971年10月に沖縄県内の全金融機関が突然閉鎖され、沖縄県民の持っているドル紙幣に朱肉のスタンプが押されました。この分だけを1ドル=360円の交換レートで、日本円に両替したのです。極秘作戦は、無事に終了しました。復帰に伴い、日本の自衛隊も沖縄に配備されました。旧日本軍に悪感情を持つ県民から反対の声もでましたが、強行されました。

復帰から6年後の1978年(昭和53年)7月30日に、沖縄の通行方式が本土並みの歩行者は右側・車は左側通行に変わりました。それまでは、米国方式を採用していたのです。    つづく

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2014年6月26日 (木)

「日本現代史」 67. 1945-2001年(8)…沖縄…

海外ロングステイ先で歴史研究 139.として記述します。

☆ 「日本現代史」 67. 1945-2001年(8)…沖縄…

1972年(昭和47年)5月の沖縄の返還は、「核抜き本土並み」と表現はされていましたが、米軍基地の「質と量」は、決して本土並みではありませんでした。本土復帰に伴う基地の縮小は、ごく僅かに留まり、実質的な変化はなかったのです。沖縄住民の意に副わない処置ということで、これを「第二の琉球処分」と表現することがあるようです。

第一の「琉球処分」とは、明治政府によって、琉球が強制的に「沖縄県」にされたことを指すのです。琉球の歴史を振り返りますと、1492年に尚 巴志(しょう はし)によって統一されるまでは、いくつもの地方にそれぞれの「王」が割拠していました。彼によって統一され、「琉球王国」が成立したのです。

その後、琉球王国は、中国の明の皇帝に貢物を献上する一方、鹿児島の薩摩藩とも関係を持つという「二重構造」の中で、王国の独立を維持していたのです。しかし、1609年、琉球は薩摩藩の軍勢に攻め込まれて、「属領」になってしまい、以後薩摩藩から搾取を受け続けることになりました。後に明治維新の際、薩摩藩が中心勢力になれたのは、「琉球から搾取した財政力が力になったのだ」ともいわれています。

1871年(明治14年)に、日本本土で「廃藩置県」が実施されました。その8年後の1879年(明治22年)、明治政府によって琉球は強制的に「沖縄県」にさせられてしまいました。明治政府は警察や軍隊を動員して、琉球王国の城・「首里城」の明け渡しを求め、琉球国の国王・尚 泰王を退位させたのです。これが、「琉球処分」だったのです。こうして、琉球王朝450年の歴史は終ったのです。

沖縄が米軍支配から脱し、本土復帰したにもかかわらず、その復帰が「琉球処分」を想起させるやり方との強い批判があります。さらに、沖縄では米軍基地をめぐる問題は依然続いているのです。沖縄の米軍基地は、復帰後、日本政府が土地を借り上げ、米軍に無料で使用させる形に変わりました。自分の土地を基地に使われることを嫌う地主に対しては、5年間は「沖縄公用地暫定使用法」(公用地法)で、その後の5年間は「沖縄地籍明確化法」によって、「強制借り上げ」が続いていました。地主が契約を拒否した場合、市町村長あるいは県知事が、代理署名せねばなりません。

当時の太田沖縄県知事が署名を拒否したため、皮肉にも「基地撤去」を求めてきた日本社会党総裁で社会党連立内閣の村山 富市首相が署名したのです。   つづく

 

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2014年6月27日 (金)

「日本現代史」 68. 1945-2001年(9)…沖縄…

海外ロングステイ先で歴史研究 140.として記述します。

☆ 「日本現代史」 68. 1945-2001年(9)…沖縄…

1972年(昭和47年)5月15日に沖縄の日本復帰が実現しましたが、沖縄にある米軍基地は、僅か15%しか減っていません。日本本土の米軍基地の面積が60%減少したことと比べれば、その不公平さが際立っています。

1995年(平成7年)2月、当時の米国国防総省のジョセフ・ナイ国防次官補は、通称「ナイ・リポート」と呼ばれる「東アジア戦略報告」をまとめ、連邦議会に提出しました。その中で、これからもアジア・太平洋地域の安定のために、10万人の米軍を東アジアに駐留させる方針を示しました。10万人の米兵の中心は、在韓米軍の3万7千人と、在日米軍の4万7千人です。在日米軍の中心は、沖縄でした。冷戦終結後も、米国は沖縄の基地を維持する方針を打ち出しているのです。

1995年10月には、米兵による少女暴行事件も起こりました。沖縄の苦しみは続いています。村山社会党連立政権の後を継いだ自民党総裁の橋本 龍太郎内閣は、1996年4月、米国との交渉の結果、「宜野湾市に広がる普天間飛行場を、五年から七年以内に全面返還させること」で、合意しました。返還の条件の中に、「沖縄県内に、ヘリコプター基地を新設すること」があり、その候補地が沖縄県北部の名護市・辺野古(へのこ)地区にされたのです。

2000年(平成12年)7月、開催された「サミット(西側の首脳会談)」の会場は、この名護市でした。米国のクリントン大統領も参加して、「平和の礎」で演説もしました。沖縄の日本への返還後、初めて沖縄を訪れた米国大統領は、「沖縄の基地を手放す気持ちがないこと」を、あらためて表明したのです。

2001年6月、沖縄県北谷(ちゃたん)町で、20代の沖縄女性が、米軍軍曹に暴行される事件が起こりました。しかし、実際の逮捕までに、4日間も費やしてしまいました。「日米地位協定」が原因だったのです。沖縄で米兵による犯罪が起きるたびに、この「日米地位協定」が問題になります。この年の10月には、沖縄県宜野湾市で県民8万5千人(沖縄本島の人口の一割)による、「沖縄県民総決起大会」が開かれました。米兵の暴行事件に抗議すると共に、「米軍基地の撤去・縮小」を求めたのです。

1972年から1999年までの間に、米軍兵士・軍属・家族による刑法犯罪は、沖縄県で4953件(そのうち、殺人・強盗・強姦や放火という凶悪事件は523件)起こりましたが、日本の警察力が充分に機能しないのは、「日米地位協定」と、「日米安保条約」があるためです。早急に「沖縄の治外法権状態」を改善する必要性があります。

「11章のその後」という池上さんの記述はありませんが、民主党代表・鳩山 由紀夫首相による発言・「普天間基地の移転先は、最低でも『沖縄県外』」が、迷走し、沖縄県民を失望させました。日本政府による「沖縄問題」への真摯な取り組みを望みます。   つづく

都合により、暫くの間、休ませていただきます。再開は9月8日の予定です。

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