「日本現代史」 61. 1945-2001年(2)…沖縄…
海外ロングステイ先で歴史研究 133.として記述します。
☆ 「日本現代史」 61. 1945-2001年(2)…沖縄…
1945年(昭和20年)4月1日に、18万3千人の部隊で沖縄に上陸した米軍は、地上戦を開始しました。米軍による艦砲射撃・砲撃のすさまじさは「鉄の暴風」と呼ばれるほどで、兵士ばかりでなく住民多数が戦争に巻き込まれて死亡しました。
沖縄の地上戦も末期になると、日本軍は「醜態」を晒します。洞窟に隠れている住民を追い出して自分たちが隠れるという行動をとったのです。洞窟の中に住民と隠れているときに、幼児が泣き出すと、見つかるのを恐れて、「幼児殺害」を命じました。米軍に降伏しようとする日本兵や住民は、後ろから日本軍によって、「射殺」されることもありました。さらに「集団自決強要」なども発生しました。上陸した米軍の歩兵は、洞窟に手榴弾を投げ込んだり、火炎放射器で焼き尽くすなどで、一方的な戦いになってしまったのです。
6月23日、沖縄守備軍の牛島 満司令官が、沖縄南端の糸満市の摩文仁(まぶに)に追い詰められ、自決しました。沖縄にとっての「終戦記念日」は、8月15日ではなく、日本軍の組織的な抵抗が終った6月23日だったのです。池上さんは司馬 遼太郎著・「街道をゆく 6 沖縄・先島への道」に書かれている次の言葉を引用しています。
「軍隊というものは本来、つまり本質としても機能としても、自国の国民を守るものではない、ということである。軍隊は軍隊そのものを守る。」…と。
味方のはずの日本軍に見捨てられたのに、「残忍な地上戦を展開した敵」のはずの米軍に助けられた沖縄県民も多かったという事実もあったのです。米軍は、「非戦闘員の沖縄県民救助」のため、5千人の担当者や住民用の食料・医薬品を用意してたとのことです。
現在、沖縄県・摩文仁の丘に、「平和の礎」が造られていて、沖縄戦で犠牲になった23万7969人の名が刻まれています。うち、米軍兵士が1万2千人あまり、日本軍兵士6万5千人あまり、地元の防衛隊員2万8千人、住民13万人あまりです。 つづく
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