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2014年6月13日 (金)

「日本現代史」 58. 1946-2004年(6)…「公害」…

海外ロングステイ先で歴史研究 130.として記述します。

☆ 「日本現代史」 58. 1946-2004年(6)…「公害」…

1956年(昭和31年)に熊本県水俣市で発生した「水俣病」は、長い訴訟の後・1973年(昭和48年)3月の熊本地裁の判決で、「チッソの全面敗訴」が決りました。チッソは、元社長と元水俣工場長の有罪が確定し、会社倒産の危機に瀕しながらも「莫大な補償費用」を払い続けています。

一方、水俣病発生の原因追求や患者救済に、真剣に取り組んでこなかったかに見える「国の責任」はどうなるかの訴訟も熱を帯びました。1990年(平成2年)9月、東京地裁は、「水俣病東京訴訟」で、「和解」を勧告しました。国は和解を拒否しました。理由は「国は、当時規制をする権限をもっておらず、水俣病の原因物質も明らかになっていなかった状況のもとで、行政指導を中心にできる限りの対応をしたので、水俣病の発生、拡大の防止に関して賠償責任は無い」というものでした。和解拒否という国の方針と、和解を求める患者の板挟みになった環境庁・山内企画調整局長が自殺するという悲劇もおきたのです。

なお、国の「公害問題」に対応する窓口は、次のように変わりました。1961年(昭和36年)に厚生省に「「公害係」が設置されました。1964年(昭和39年)厚生省に「公害課」を新設し、政府は「公害対策本部」を設置しました。1967年(昭和42年)には、国が公害対策に取り組むことを定めた「公害対策基本法」が施行されたのです。この法律の対象は、大気汚染・水質汚濁・騒音・振動・地盤沈下・悪臭の6種類でした。そして、1971年(昭和46年)7月に、厚生省を中心に11の省庁から500人を集めて、「環境庁」が発足したのです。実質的な初代長官の大石 武一の初仕事は「尾瀬の自然保護」でした。中止させる権限はなかったものの、大石長官のリーダーシップで、「尾瀬・只見スカイ・ラインの建設工事」を中止」させました。

1995年7月、日本社会党委員長・村山 富市の組閣した連立政権が誕生すると、水俣病に対する国の方針が変わり、「和解に応じた」のです。加えて、村山首相は、「心から遺憾の意を表したい」と患者に謝罪したのです。   つづく

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