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2014年6月12日 (木)

「日本現代史」 57. 1946-2004年(5)…「公害」…

海外ロングステイ先で歴史研究 129.として記述します。

☆ 「日本現代史」 57. 1946-2004年(5)…「公害」…

1956年(昭和31年)に、熊本県水俣市に発生した「水俣病」の原因追求・防止対策がまだ進まない状況にあった1965年(昭和40年)に、新潟県阿賀野川流域でも「水俣病」と似た症状の患者が見つかりました。後に「新潟水俣病」と呼ばれます。こちらの原因は、昭和電工・鹿瀬(かのせ)工場における、アセトアルデヒドの製造工場の廃水による「水銀中毒」でした。昭和電工は、自らの責任を認めようとせず、1964年に起きた新潟地震で流出した農薬が川に流れ込んだものと、反論したのです。

1967年(昭和42年)6月、患者が昭和電工を相手どり、損害賠償請求の訴訟を、新潟地裁に起こしました。この訴訟は、「公害病の初の訴訟」といわれています。1946年(昭和21年)に発生した「イタイイタイ病」、1956年(昭和31年)熊本県・水俣市に発生した「水俣病」、1959年(昭和34年)から始まった「四日市喘息」そしてこの「新潟水俣病(第二水俣病ともいう)」の4つを合わせて「四大公害病」と呼びます。

1959年(昭和34年)11月に、厚生省の食品衛生調査会が「水俣病の主因をなすものは、ある種の有機水銀化合物」と答申した翌日に、解散させられてしまいました。池田 勇人通産相が「有機水銀がチッソから流出したという結論は早計」発言までしていました。通産省の攻勢で、厚生省が怖気づき「政府の統一見解を出すチャンス」を失ってしまいました。発生後9年経った1968年(昭和43年)9月になって、政府は漸く「水俣工場の廃水が水俣病の原因」と認めたのです。

チッソの責任が追求されました。1976年(昭和51年)、吉岡 喜一元チッソ社長、西田 栄一元水俣工場長が「業務上過失致死傷の罪」で、起訴されました。この刑事裁判は最高裁判所までいき、1988年(昭和63年)に二人の被告に禁固二年、執行猶予三年の有罪判決が確定しました。1973年(昭和48年)3月に、水俣病患者がチッソに損害賠償を求める裁判で、熊本地裁は、「チッソの全面敗訴」の判決を言い渡しました。チッソは同じ年の7月、裁判の原告以外も含めた水俣病患者に、判決の賠償金・一時金に加え、治療費・介護費などを支払うことを盛り込んだ「補償協定」に署名したのです。

莫大な補償費用が必要となりました。チッソは会社倒産の危機に瀕しましたが、国・熊本県・金融機関などの支援を受けて、存続しました。   つづく

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