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2014年6月11日 (水)

「日本現代史」 56. 1946-2004年(4)…「公害」…

海外ロングステイ先で歴史研究 128.として記述します。

☆ 「日本現代史」 56. 1946-2004年(4)…「公害」…

1957年(昭和32年)から三重県の四日市市には、石油の精油所が次々に建設され、石油コンビナートが完成しました。この頃から四日市沖合の伊勢湾でとれる魚が異臭を放つようになりました。魚の値段は下がり、漁民に打撃を与えました。やがて被害は、「海」から「大気」に及んだのです。石油コンビナートから出る「亜硫酸ガスなどの有毒ガス・悪臭が市民を脅かします。

1959年(昭和34年)頃から、コンビナートと隣接する塩浜地区で、喘息患者が激増しました。「四日市喘息」と呼ばれるようになりました。塩浜地区の小・中・高校では夏でも窓を開けられず、エアコンが普及前の時代でしたので、教室は「焦熱地獄」となっていたのです。コンビナートの個々の企業は、法律に基づいた排出基準を守っていますので、責任は無い顔をします。企業が集中した場合、排煙に含まれる「硫黄酸化物などの量」は膨大となって人体に悪影響を与えたのですから、行政は迅速に対策を講じなければなりません。

ところが、石油コンビナートのおかげで繁栄していると考える地元の四日市市や三重県は、抜本的な対策をとろうとせず、喘息患者は増え続け、死者まで出る状況になりました。被害発生後8年を経た1967年(昭和42年)9月になって、喘息患者がコンビナートの中の6社を相手取り、損害賠償を求める「四日市公害訴訟」が始まりました。この裁判はさらに5年後の1972年(昭和47年)7月原告が勝訴し、その後、原告以外の患者も同じように救済されることになりました。加害者の企業ばかりでなく、「行政の怠慢さ」が問われることになった公害でした。   つづく

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