「日本現代史」 54. 1946-2004年(2)…「公害」…
海外ロングステイ先で歴史研究 126.として記述します。
☆ 「日本現代史」 54. 1946-2004年(2)…「公害」…
1956年(昭和31年)4月21日、熊本県水俣市にある新日本窒素肥料(1965年に同社は、「チッソ」に社名変更したので、今後は「チッソ」と呼称します)付属病院に5歳の少女が運び込まれました。患者の症状は、手足が痺れ・言葉がはっきりせず・意識が朦朧とするという特殊なものでした。8日後に妹が同じ症状で入院、近所にも同じ症状の患者がいることも分かったのです。付属病院の細川院長は、水俣保健所に「原因不明の中枢神経疾患が多発している」と、報告しました。これが、後に「水俣病」として有名になる病気の、公式確認です。
同じ年の5月16日に、地元の熊本日日新聞に、「水俣に子供の奇病ー 同じ原因か ネコにも発生」という見出しで報じられ、広く知られるようになりました。5月28日には水俣市の保健所・市役所・医師会・チッソ付属病院・市立病院などによって、「水俣市奇病対策委員会」が設置され、対策に乗り出しました。すぐに30人の患者が見つかりましたが、患者の家はすべて漁業を営み、水俣湾周辺の漁村に集中していました。病因が判明するまでは、「伝染病」ではないかと、患者の家族は「差別」にも悩まされたのです。8月になって、委員会は熊本大学医学部に奇病の原因究明と研究を依頼しました。
明治時代に水俣市に誘致され、電気化学工場を建設することからスタートした「チッソ」は、水俣市民の多くが働く会社でした。また、「チッソ」の関係会社も多く、水俣市はいわゆる「チッソの企業城下町」でもあったわけです。熊本大学の研究班が、「チッソの工場廃水」をサンプルに欲しいと申し入れても、「チッソ」は、企業秘密を理由に断り、調査研究は難航しました。この間にも被害は進んでいたのです。
1957年(昭和32年)8月、熊本県水産課は、詳しい因果関係は分からないものの、状況から見て「チッソ工場の廃水による魚介類の汚染が、奇病の原因」と考えました。そこで、食品衛生法によって、漁獲禁止・工場廃水停止を行おうとして、厚生省の意向を質しました。これを、厚生省が認めなかったために、後日後悔することになってしまったのです。 つづく
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