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2014年5月 1日 (木)

「日本現代史」 29. 1953-1997年(4)…総資本対総労働…

海外ロングステイ先で歴史研究 101として記述します。

☆ 「日本現代史」 29. 1953-1997年(4)…総資本対総労働…

1960年(昭和35年)6月19日の安保条約の自然成立以降、総評の支援に力が入った「三池闘争」は、現地での闘いの焦点はホッパー(石炭積み出し施設)に絞られました。各炭鉱で掘られた石炭はホッパーに集められてから、石炭貨車に積んで出荷されるので、この施設を占拠すれば石炭の出荷は不可能になります。三池労組の組合員は、ホッパーの周囲に小屋をいくつも建てて、24時間警戒にあたりました。

会社は、組合員の占拠をやめさせることを求める「仮処分」を福岡地裁に申請しました。7月に、福岡地裁は会社の申請を認め、組合に占拠の解除を求めました。期限は7月21日でした。

7月17日、総評は「ホッパー死守」を掲げて10万人の総決起大会を開催しました。全国から労働組合員が駆けつけたのです。7月18日および7月19日の仮執行が阻止されたところで、裁判所は「警察の支援」を要請しました。組合側は、ホッパーの側に戦場さながらの塹壕まで掘って、守備隊2万人が守りを固め火炎瓶まで用意されました。

対する警官隊は、福岡県以外からの応援部隊4100人を加えて総勢1万人。装甲車や放水車、ヘリコプターまで用意しました。突入は、7月20日午前5時と決められました。武器を持つ組合員2万人対警官隊1万人の激突は、多くの死者がでることさえ予想されたのです。

1960年(昭和35年)7月19日に就任したばかりの池田 勇人内閣は、流血の惨事を避けようと努めました。石田 博英労相が事態の収拾に動きました。労使双方に対し、「中央労働委員会の斡旋」に応じるよう、働きかけたのです。委員会は、三井鉱山社長と炭労の委員長や総評議長の三人を呼んで、「申し入れ」を提示しました。申し入れとは、「組合はピケを解き、会社は仮処分の申請を取り下げること。」でした。とにかく、「無条件で斡旋案を受け入れよ」というものでした。「申し入れ拒否」の態度をとっていた三井鉱山社長は、石田労相が説得したのです。

午前4時に、ホッパーに向かっていた警官隊を乗せた車は突然ストップしてUターンし、流血の事態は避けられたのです。   つづく

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2014年5月 2日 (金)

「日本現代史」 30. 1953-1997年(5)…総資本対総労働…

海外ロングステイ先で歴史研究 102.として記述します。

☆ 「日本現代史」 30. 1953-1997年(5)…総資本対総労働…

1960年(昭和35年)7月20日の石炭積み出し施設(ホッパー)の攻防戦で、予想された三池労組と警官隊との激突は、中労委(中央労働委員会)の斡旋ですんでの所で流血の惨事は回避されました。労使双方から「白紙委任」を取り付けた中労委は、8月10日に最終的な斡旋案を発表しました。

「会社は指名解雇を取り消し、解雇該当者は自発退職する。自発退職した者は退職金以外に2万円を加給する。」というものでした。会社はこれを受諾し、炭労は9月になって受諾を決めたので、三池労組もこの方針をしぶしぶ受け入れたのです。結果として、指名された組合員は退職することになって、会社側の「人員削減方針」を認めることになり、三池労組の敗北となりました。退職者は、ほかの企業から再就職を拒否され、残った三池労組組合員も職場内での差別待遇に苦しんだといわれています。

その後も、三池労組から新労(第二組合)に移る組合員が増え、闘争が終った1961年には、三池労組は「少数派に転落」してしまいました。

1963年(昭和38年)11月9日に三池鉱業所・三川鉱の第一斜坑で、「炭塵爆発」が起こりました。死者458人、重軽傷者555人を出す戦後最大の炭鉱事故となりました。石炭を掘削すると、細かい石炭の粉が出て、空気中を漂います。これが石炭の塵(炭塵)ですが、炭塵が空気中に充満すると爆発する危険があることは、広く知られていたとのことです。

日頃から坑内をきちんと掃除するか、あるいは水を撒いて坑内を湿らせておけば、危険はなくなるといわれています。職場の安全を求めて、職場闘争を繰り広げてきた三池労組の組合員は、「労働組合の力が弱くなると、労働者の安全が脅かされると」ということが正しかったと主張しました。石炭から石油へのエネルギー革命は、その後も続きました。日本各地の炭鉱は次々と閉山に追い込まれたのです。そして、1997年3月、三池鉱山が閉山になりました。閉山のとき、三池労組の組合員は15人、新労の組合員は900人でした。

時代は変わり、今となっては、三池闘争のような労働運動は、存在しません。振り返ってみれば、三池闘争は産業構造の変化に翻弄された労働者の悲劇を物語るものです。その一方で、「仲間のクビを守るのが労働組合のつとめ」という原則を貫き、「働くものの尊厳」を守った価値は大きいとの評価もあります。

池上さんは、「第六章のその後」として、「派遣労働者の不安定な身分」を取上げ、「労働組合の力が弱まると、労働者の権利が奪われるという現実(労働規制の撤廃の進行)に危惧の念を表明していました。   つづく

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2014年5月 7日 (水)

「日本現代史」 31. 1945-2001年(1)…日韓条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 103.として記述します。

☆ 「日本現代史」 31. 1945-2001年(1)…日韓条約…

池上 彰著・「そうだったのか!日本現代史」第7章は、日本の朝鮮半島支配が終った1945年(昭和20年)から始まります。第7章の表題は、「日韓条約が結ばれた」です。

1945年(昭和20年)8月15日、日本が降伏して第二次世界大戦が終りました。その3週間ほど前の7月26日、米国大統領・英国首相・中華民国主席の三首脳の名において、日本に対して発せられた無条件降伏などを求めた「ポツダム宣言」は13ヵ条から成り立っていました。その宣言の中で、「朝鮮を日本から切り離し、独立させる方針」を打ち出していました。

日本はポツダム宣言を受け入れて降伏したのですから、「朝鮮半島の分離」も同時に受け入れたことになります。日本が降伏した後の朝鮮半島には、北からソ連軍が入ってきました。それを見てあわてた米軍が南から進駐し、朝鮮半島は「北緯38度線を境に南北に分離支配」されました。1945年から朝鮮半島の南半分を支配することになった米軍は、朝鮮軍政庁(実態は米軍政庁)を設置して、統治を始めました。この年の12月、政庁は朝鮮半島の日本の財産(日本政府および日本人個人の財産)ををすべて取上げてしまいました。取上げの理由は、日本の財産は、「日本の朝鮮半島支配の間に、朝鮮人から搾取して築き上げたもの」と決め付けたようです。

1948年(昭和23年)の8月に「南の大韓民国(韓国)」、9月に「北の朝鮮民主主義人民共和国」が誕生しました。日本人から取上げた財産は、米国から韓国に譲り渡されて、韓国政府のものになってしまいました。   つづく

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2014年5月 8日 (木)

「日本現代史」 32. 1945-2001年(2)…日韓条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 104.として記述します。

☆ 「日本現代史」 32. 1945-2001年(2)…日韓条約…

1945年(昭和20年)8月15日に日本が降伏して、「日帝時代36年」が終わり、朝鮮は日本から切り離されました。日本に併合されるまでの、朝鮮半島の状況を振り返ってみます。

中国大陸の明や清に朝貢する関係の「李氏朝鮮」は、高麗の次の王朝で、1393年に高麗の武将・李成桂によって設立された王朝です。(朝鮮国王として、明から冊封を受けたのは太宗の1401年)中国の王朝が明から清に変わっても、李氏朝鮮は、引き続き、中国王朝の冊封体制化にありました。1895年の日清戦争後、戦勝国日本と清国との間で結ばれた「下関条約」によって、「李氏朝鮮の清王朝の冊封体制からの離脱と、近代国家としての独立」が決められました。1897年に、李氏朝鮮は国号を「大韓帝国」とし、君主の号を「皇帝」と改めました。以後日本の影響下に置かれました。

その後日本は、大韓帝国との間で、3度にわたる「日韓協約」を締結し、韓国を「日本の保護国」にしてしまいました。1904年8月の第一次日韓協約では、「大韓帝国は、日本政府の推薦する日本人一名を財務顧問に、外国人一名を外交顧問として雇い、その意見に従わなければならない」と決めました。1905年11月の第二次日韓協約では、「大日本帝国による大韓帝国の保護国化」を決めました。日本政府を代表する「統監」を設置したのもこの協約によったものです。この協約は、異常な状況下で署名されたといわれています。日本の憲兵隊が包囲する中で開かれた大韓帝国の閣僚会議に、伊藤博文特派大使が乗り込んで、調印を認めさせたのです。この調印で、大韓帝国は外交権を日本に譲渡し、実質的に独立国の地位を失ってしまいました。

1907年6月、オランダのハーグで開催された「万国平和会議」に、第二次日韓協約を不満とする大韓帝国の高宗が密使を送り込みました。「ハーグ密使事件」と呼ばれる事件でしたが、列国からは「大韓帝国には外交権が無い」ことを理由に拒絶されてしまいました。

1907年7月に、日本政府はハーグ密使事件を理由に高宗を退位させ、同じ月に第三次日韓協約によって、「日本が送り込んだ統監による、大韓帝国内政権の掌握」を決めました。そして、1910年(明治43年)に、「大韓帝国併合に関する条約」で、大韓帝国はなくなって、日本の一部になったのです。   つづく

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2014年5月 9日 (金)

「日本現代史」 33. 1945-2001年(3)…日韓条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 105.として記述します。

☆ 「日本現代史」 33. 1945-2001年(3)…日韓条約…

大韓帝国(韓国)が日本に併合された1910年(明治43年)8月を振り返っています。併合された後、旧韓国は、日本の天皇の代理の統監(今後は「総督」と表現します)が統治しました。総督の命令が法律になり、日本国内で成立した法律は、朝鮮半島では勅令(天皇の命令)になりました。このとき、韓国の人々を代表する国会のようなものは存在しませんでした。

学校では日本語の使用が強制され、1939年になると朝鮮独自の戸籍を日本式に変更させる「朝鮮民事令」が施行され、日本風の「姓と名」に変える「創氏改名」が強行されました。朝鮮半島各地にも神道・神社が建設されたのです。日本に反対する人々は、総督府から厳しく弾圧されました。

1919年1月に、日本によって軟禁状態にされていた旧大韓帝国皇帝・高宗が死去すると、「日本によって毒殺された」という噂が広がって反日感情が高まりました。3月1日に反日感情を持つ多数の人々がソウルに集まって、「独立宣言」を発表しました。これが後に「三・一運動」と呼ばれます。この独立運動は、日本の総督府によって弾圧されましたが、朝鮮半島の外に居た人々は上海で、「大韓民国臨時政府」を組織していたのです。後に大韓民国の大統領になる米国在住の李承晩が、臨時政府大統領に選ばれていました。(1925年まで)

現在の韓国の青少年に大きな影響を与えるはずの「韓国の高校の国定・歴史教科書」に、「三・一運動」時の日本の総督府が行ったという蛮行が次の通り記述されています。日本側にも言い分があって、誇大な表現になっているとのコメントはありますが…。

「三・一運動」に狼狽した日帝は、憲兵警察はもちろん、陸海軍まで出動させた。平和的な示威によって正当な要求を主張したわが民族は、無差別の銃撃によって殺傷され、家屋と教会、学校などの建物が焼き払われたり、破壊されるなど激しい受難にあった。…日帝軍警に殺された人は7509人、負傷者は1万5961人、逮捕された人は4万6948人であり、破壊、放火された民家が715戸、教会が47ヵ所、学校が2ヵ所であった。…と。

国号を「大韓民国」とした旧大韓帝国は、1948(昭和23年)年7月に新憲法を公布し、8月15日に、米国の承認を得て李承晩初代大統領が、「大韓民国の独立を宣言」しました。新憲法の前文に、日本にとって不都合な記述がありました。「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は、三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統(歴史的な正当性)を継承し…」と。

新独立国・大韓民国(新韓国)は、「反日」を掲げて独立を宣言した「三・一運動」を継承すると謳い、反日運動の反日組織だった「大韓民国臨時政府の初代大統領」だった李承晩が大統領に就任したのです。今につながる「反日のルーツ」は、新国家独立時から存在していたようです。   つづく

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2014年5月12日 (月)

「日本現代史」 34. 1945-2001年(4)…日韓条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 106.として記述します。

☆ 「日本現代史」 34. 1945-2001年(4)…日韓条約…

日本が大韓帝国を併合した1910年(明治43年)や日本の統治に反対する人たちが起こした「三・一運動」と呼ばれる1919年の独立運動の頃を振り返っています。

三・一運動を日本政府は陸海軍や警察を緊急出動させて、反日の人たちを弾圧しました。この緊急動員で、数万人の死者・負傷者・逮捕者が出たと伝えられています。日本人として胸の痛む記述を続けなければなりません。

日本の支配下で土地を奪われた人や、働き場所を求める人たちが朝鮮半島から日本に渡りました。日本国内の労働力不足解消のために、強制的に日本に連れてこられた人たちもいました。1945年(昭和20年)の日本の敗戦当時、日本本土には200万人を超える朝鮮半島出身者が居たのです。この人たちや、その子孫が「在日韓国人」・「在日朝鮮人」なのです。

韓国側は、「韓国併合条約」について、戦後独立した韓国政府は、「日本の軍事力を背景に強制的に結ばせた帝国主義的な行為であり、不法なものであった」という立場をとります。一方、日本政府は、1965年11月当時の佐藤首相は国会で、この条約につき、「対等の立場で、また自由意志で締結された」と答弁しているように、全く異なる認識をしています。日本の多くの歴史学者は、「大韓帝国併合は、形式的適法性を有していた。つまり、国際法上合法であり、日本の朝鮮支配は、国際的に承認された植民地である」と、次のコメントを付け加えつつ、述べるようです。そのコメントとは、「合法ではあるが、、日本による大韓帝国併合の行為が正しかったか否かとは別問題である」…と。米国や西欧列強も、「日本が国際法に違反して韓国を支配した」と批評することはありません。

1948年8月に李承晩を初代大統領として誕生した大韓民国(韓国)を、1950年(昭和25年)6月、北朝鮮の大軍が38度線を突破して、攻撃しました。「朝鮮戦争」の始まりです。この戦争は、米国を中心とする国連軍が韓国を、中国が北朝鮮を支援して泥沼の戦争になりました。社会主義勢力と対抗するために、米国は、「日本と韓国の密接な協力関係が必要」と考え、日本と韓国の仲介に乗り出しました。日本との関係改善に消極的だった李承晩大統領も、北朝鮮と対抗するため、考えを変えたようです。   つづく

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2014年5月13日 (火)

「日本現代史」 35. 1945-2001年(5)…日韓条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 107.として記述します。

☆ 「日本現代史」 35. 1945-2001年(5)…日韓条約…

1950年(昭和25年)6月に始まった「朝鮮戦争」で、米国を中心とする国連軍が韓国を支援しましたが、社会主義勢力との対抗上「日本と韓国の密接な協力関係」が必要になりました。1948年に韓国の初代大統領に就任した李承晩は、反日色を強く打ち出しており、米国の仲介で、「日韓会談の開催」に渋々同意しました。

ところが、会談開催前の1952年1月、「李承晩ライン」という領海ラインを宣言しました。日韓の水域は隣り合っていますが、戦後米国の設定した「マッカーサー・ライン」より、かなり韓国に有利な領海線を設定し、一方的な宣言を行ったのです。韓国の設定したこのラインを越えたとして拿捕された日本漁民は1965年(昭和30年)までに、3929人にのぼりました。多くの日本漁船は没収され、韓国軍に銃撃されて死亡する漁船員まで出るほどで、日本側の不満の声が高まりました。

李承晩ラインが設定された翌月の1952年2月に、米国の仲介もあるので、「第一回日韓会談の本会議」が開催されました。この会談は、予想された通り、難航しました。韓国は、日本の朝鮮半島支配によって、被害を受けた国民への「損害賠償」を求めました。一方の日本政府は、敗戦直後に米国に没収され、その後韓国政府に譲り渡された「日本財産の返還」を要求しました。一貫して、日本政府は「賠償」を認めませんでした。

日本政府は、「賠償は敗戦国が勝利国に払うもの」として、戦争相手ではなかった韓国に支払う必要はないと主張したものです。また、この支払いを実施すれば、「韓国併合は合法的なもの」という日本の主張と矛盾することになりますので。交渉はこの問題をめぐってたびたび中断しました。

このほか、「韓国併合条約」をどう評価するか、在日韓国人の地位をどうするか、などをめぐっても意見が対立しました。   つづく

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2014年5月14日 (水)

「日本現代史」 36. 1945-2001年(6)…日韓条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 108.として記述します。

☆ 「日本現代史」 36. 1945-2001年(6)…日韓条約…

1952年(昭和27年)2月に始まった日韓交渉は、難航に難航を重ね、なかなか進展しませんでした。そんな状況下の1953年に、日本側の久保田 貫一郎主席代表の発言がさらなる紛糾を引き起こしてしまいました。「日本は韓国に対していいこともした」という、いわゆる「久保田発言(韓国側は「妄言」と表現)」です。「日本としても朝鮮の鉄道や港を造ったり、農地を造成したり、当時の大蔵省は多い年で2000万円も持ち出していた」との発言に対し、韓国側は、「1000万円とか、2000万円とかの補助は韓人のために出したのではなく、日本人のために出したもので、その金で警察や刑務所をつくったではないか」と強く反発したのです。

1950年(昭和25年)6月に始まった朝鮮戦争は、1953年7月に休戦になりますが、休戦協定に署名したのは、中朝連合軍代表・南日朝鮮人民軍大将と国連軍代表のウイリアム・ハリソン・米軍中将のみで、李承晩大統領は署名していません。彼は「北進統一」に固執していたためです。それでも韓国大統領を罷免されることもなく、李承晩時代は1960年4月まで続きました。

難航している「日韓交渉」は、1960年になっても妥結の見込みも無く続いていました。ところが1961年(昭和36年)の韓国の政変後、交渉は急進展したのです。朴正ヒ(パク・チョンヒ)陸軍少将が軍事クーデターで政権を握りました。正式に朴大統領誕生後の1963年からいくつかの理由で、日本との関係改善に動きだしました。韓国の近代化を進める経済開発資金を日本から得るためと、再び朝鮮戦争が始まったときに備えて隣国・日本との関係を良くしておきたい安全保障上の理由だったといわれています。

予備会談も含め13年間進展のなかった「日韓交渉」は、1965年(昭和40年)6月22日に、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」が、日本の総理官邸で調印されました。   つづく

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2014年5月15日 (木)

「日本現代史」 37. 1946-2001年(7)…日韓条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 109.として記述します。

☆ 「日本現代史」 37. 1946-2001年(7)…日韓条約…

1963年に就任した朴正ヒ(パク・チョンヒ)大統領の政権下、難航に難航を重ねて13年費やした「日韓交渉」が合意に達し、いわゆる「日韓基本条約」が1965年6月22日に調印されました。この条約では、次の点が重要なポイントでした。 (1)1910年に発効した「日韓併合条約」が失効していることの確認 (2)韓国政府が朝鮮唯一の合法政府であることの確認 (3)相互の貿易の回復 (4)民間航空路の開設 (5)日本から大韓民国(韓国)への資金供与 (6)1952年1月に韓国によって設定された「李承晩ライン」の解消 (7)在日韓国人の法的地位の確定 など。

領海と漁業に関しては、日本は韓国に「漁業協力資金1億ドル」を支払い、韓国周辺での日本の漁獲量を定めることなどで漁業問題は決着し、「李承晩ライン」は撤廃されたのです。

日韓条約は調印されたものの、承認までに、日韓の双方で反対運動が起こりました。韓国内では、日本の植民地支配の責任を明確にしていないことへの不満が高く、「屈辱外交反対」の学生デモが激しくなりました。韓国政府は1965年8月に、軍隊を出動させてデモ隊を排除し、国会で与党が強行採決しました。一方、日本では「北朝鮮を国として認めていないこと」などから社会党や共産党の反対運動が高まりました。しかし自民党は衆・参両院で強行採決を繰り返し、12月11日に、条約は成立しました。

親日的であった韓国・朴政権によって結ばれた日韓条約であっても、日韓両国が決して譲ることのできない点が残りました。「韓国政府が朝鮮半島における唯一の合法政権である」ことや、「日韓併合条約」の考え方に、相違点があったためです。日本側の心配点は、将来の北朝鮮との交渉開始への憂慮でしたし、韓国側は日韓併合条約そのものの否定を貫きたい強い意向のためでした。

「日韓条約」は、日本語と韓国語、加えて英語の三ヵ国語で文書が作成されました。解釈に相違が出た場合は、「英文に基づく」という異例の形式をとっていたので、日韓両国は「玉虫色の表現」で合意していたようです。   つづく

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2014年5月16日 (金)

「日本現代史」 38. 1946-2001年(8)…日韓条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 110.として記述します。

☆ 「日本現代史」 38. 1946-2001年(8)…日韓条約…

日本は韓国に負けたわけではないので、「賠償金」を支払う必要はないと主張し続けました。1910年(明治43年)の「韓国併合条約」後、日本が韓国に与えた苦痛を考えると、名目はどうであれ保証金の支払いは避けられないと日本も考えていました。1965年(昭和40年)の「日韓基本条約」調印後、その支払いが具体化しました。日本は韓国に対し、3億ドルの無償供与と、長期の低金利の2億ドルの有償援助を行ったのです。

この支払いを、日本政府は「請求権・経済協力」と表現しながら、「経済援助」ないしは「韓国の独立祝い金」と解釈しました。一方、韓国政府はこの資金を「賠償金」と受け止めて、国内向けにはそう説明しました。この資金と引き換えに、韓国政府は、「対日請求権」を放棄しました。これ以降、日本による支配や戦争についての韓国人被害者からの補償要求が出されるたびに、日本政府は「補償問題は法的に解決済み」という立場をとっています。

しかし、条約の調印にあたって、日本から韓国に対し、朝鮮半島支配に関する「反省や謝罪の言葉」はなかったといわれています。条約の仮調印に訪韓した椎名 悦三郎外相が述べた次の言葉のみだったのです。「両国間の永い歴史の中に、不幸な期間があったことは、まことに遺憾な次第でありまして、深く反省するものであります」と。

日韓基本条約の調印とともに、「在日韓国人の法的地位に関する条約」も結ばれました。日本の朝鮮半島統治時代に、日本に渡った朝鮮半島出身者の数は、日本の敗戦当時200万人を超えていました。日本の敗戦で、多くの人たちが帰国しましたが、生活の基盤が日本にある人や家庭の事情で帰国できない人は、そのまま日本に留まりました。これらの人たちは、日本が朝鮮半島を支配していた間は、「日本国籍」を持っていましたが、1952年(昭和27年)の「サンフランシスコ条約」発効後は日本国籍ではなくなっていました。日本に住む外国人は外国人登録証を携帯することが義務付けられていますが、「登録証の国籍の欄」に、朝鮮半島出身者は「朝鮮」と表記するという不安定なものでした。

この日韓基本条約締結後、日本に住む朝鮮半島出身の人たちやその子孫の立場が明確になって「永住資格」が与えられました。義務教育や生活保護についても、日本人に準ずる扱いになって、国民健康保険にも加入することが認められたのです。   つづく

 

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2014年5月19日 (月)

「日本現代史」 39. 1946-2001年(9)…日韓条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 39. 1946-2001年(9)…日韓条約…

1991年(平成3年)になって、日本に「出入国管理特例法」ができて、朝鮮半島出身者とその子孫であれば国籍欄が「朝鮮」の人にも「韓国」の人にも「特別永住権」が認められようになりました。そして、国籍欄が「朝鮮」の人が「在日朝鮮人」、「韓国」の人が「在日韓国人」と呼ばれます。韓国籍が約46万人、朝鮮籍が約17万人といわれています。

在日韓国人と在日朝鮮人は、常に外国人登録証を携行することが義務付けられ、海外旅行に出た場合は、「再入国許可」を取得しなければ日本に戻れません。民主化が進んだ日本とはいわれるものの、「在日」であることを理由とした就職差別・結婚差別は、明らかに続いています。

ここで、池上さんは日韓の歴史に詳しい韓国の宗教・政治学者である池 明観(ジ・ミョンクアン 1924年生まれ)氏の「1965年の日韓基本条約」に関する見解」を引用しています。

「日韓条約は、韓国国民を銃剣で抑えつけて妥結されたものである。…朴 正ヒ(パク・チョンヒ)政権はその延命策として、日本は経済的利益のために、多くの矛盾をはらんでいても、条約を取りまとめた。そして多くのことを積み残したために、いまでも幾多の問題がくすぶり続けている。…この条約が、韓国の経済的発展に大きなはずみをつけたことは事実である。経済統計の面から見ても、この条約による対日請求権資金は、1966年から1977年に至るあいだ、韓国の経済運営においてかなりの比重をしめた。このような統計よりもさらに重要なことは、韓国はそれから経済のすべての面において日本から学びながら、日本をキャッチ・アップしようという道を歩むようになったことであろう。」…と。

「日韓基本条約」調印の段階で曖昧にしていた日本の責任についても、1990年代以降、日本政府が韓国に謝罪するようになったのです。1998年(平成10年)10月、韓国の金大中大統領が日本を公式訪問した際、当時の小渕 恵三首相と首脳会談を行い、日韓共同宣言を発表しました。その共同宣言の趣旨は、次の通りです。

「小渕首相は、今世紀の日韓関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し、植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。金大統領は、…両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した。」…と。

2001年5月、韓国は「日本の中学校の歴史教科書に誤った記述がある」として、日本政府に対し、修正を求めました。日本は、一部の修正に応じたものの、多くの記述は、「明白な誤りとはいえない」と、修正要求を拒絶しました。日本政府のこの回答に韓国は激しく反発して、日韓交流のさまざまな計画が中止されるなど、日韓関係は冷え込んだのです。

金大中政権(1998-2003年)時代の一時的な日韓友好時代があったものの、次のノムヒョン政権(2003-2008年)や李 明博(イ・ミョンバク 2008-2013年)政権は、その末期に「支持率回復をめざしたかに見える『日本敵視政策』」を採用」して、再度ギクシャクした関係に戻したかに見えました。日韓関係は、今でも改善されたとはいえない状況です。   つづく

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2014年5月20日 (火)

「日本現代史」 40. 1945-2002年(1)…文部省対日教組…

海外ロングステイ先で歴史研究 112.として記述します。

☆ 「日本現代史」 40. 1945-2002年(1)…文部省対日教組…

池上 彰著・「そうだったのか!日本現代史」第8章は、終戦の年1945年(昭和20年)に日本を占領した連合軍総司令部(GHQ)の打ち出した教育改革・「日本の教育の民主化」から始まりました。この章のテーマは、「文部省対日教組 教育をめぐって抗争が続いた」です。この改革の第一歩は、「教育を受ける権利」が憲法に明記されたことでした。戦前の日本には、「権利としての教育」という考え方はありませんでしたから。

1947年(昭和22年)6月に、公立の小・中学校の先生を中心に、高校、大学の教職員も参加して、日本教職員組合(日教組)が結成されました。結成当初の参加人数は50万人に達しました。結成大会は奈良県橿原市で開かれ、「新しい民主的秩序の建設と新日本文化の創造に偉大なる役割を担おうとするものである」と、宣言したのです。学校制度は「六・三・三・四制」が導入され、教科書は「国定教科書」から「検定教科書」に変わりました。

1948年(昭和23年)7月には、「教育委員会法」が公布され、都道府県と市町村に教育委員会が設置されました。教育委員は住民から公選で選ばれるという、米国方式の「素人が教育問題を支配し、専門家がそれを補佐する」という方式でした。

1950年(昭和25年)、天野 貞祐文部大臣が、「学校の学芸会や運動会では国旗を掲揚し、国歌を斉唱することを求める」という談話を発表しました。天野文相は、「共産主義に対する精神的自衛力」として、愛国心を高めるために「日の丸」・「君が代」が必要だと考えましたが、日教組は、「日の丸は太平洋戦争で、日本軍の侵略のシンボルだった」と考えたのです。さらに日教組は、君が代の「君(きみ)」とは、天皇を指しているので、国民主権に反すると考えて、文部省と対立したようです。   つづく

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2014年5月21日 (水)

「日本現代史」 41. 1945-2002年(2)…文部省対日教組…

海外ロングステイ先で歴史研究 113.として記述します。

☆ 「日本現代史」 41. 1945-2002年(2)…文部省対日教組…

1947年(昭和22年)に結成された「日教組」は、教育の民主化が進む中で、教育現場の教師の権利の確立と、民主的な教育の確保をめざしました。日中戦争から太平洋戦争にかけて、教師として多くの教え子を戦場に送り出した自らの責任を反省するところから運動をスタートさせたといわれています。

1951年(昭和26年)の日教組の大会で、「教え子を再び戦場に送るな!」をスローガンとして掲げ、これがその後の日教組の基本路線になったのです。平和路線を追求することになり、「安保反対」や「米軍基地反対運動」などにつながっていきました。保守勢力から見れば、「反米路戦」と映り、東西冷戦の中で、ソ連や中国の味方をしているように見られました。

日教組は翌1952年6月の大会で「教師の倫理綱領」を制定しました。ここに、「教師は労働者である」、「教師は団結する」という条文があったことから、文部省や保守勢力は、「日教組は階級闘争主義」と、警戒を強めました。この年に、日教組は「自らの主張を政治の場で実現」するために、独自の政治団体(「日本教職員政治連盟」のちの「日本民主教育政治連盟」)を結成しました。こうして、日教組対文部省の対立構造が形成されていったのです。

日教組はその後組織を拡大し、最盛期の1958年(昭和33年)には、組合員数が67万人に達しました。日教組は独自に「教育研究大会」を開くなど、組合の立場から教育内容の検討を進め、「自主カリキュラム」の編成運動まで展開したのです。

こうした教育内容の主張は、「文部省の権限を侵すもの」だと文部省は受け止めました。「教育内容は国家が責任を持つもの」であり、その担当が文部省だとの強い主張でした。戦後、米国が日本に導入した「住民主体」の考え方とは対立するものですが、文部省の方針は、大きく変わってゆきました。   つづく

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2014年5月22日 (木)

「日本現代史」 42. 1945-2002年(3)…文部省対日教組…

海外ロングステイ先で歴史研究 114.として記述します。

☆ 「日本現代史」 42. 1945-2002年(3)…文部省対日教組…

「教育は国家が責任を持つ」という文部省の考え方と、戦後米国が日本に導入した「住民主体」の考え方に違いがありましたので、1947年(昭和22年)に文部省から出された「学習指導要領」には、「試案」という言葉が入っていました。学校で教える内容を定めた指導要領は、教える基準を提示するだけという緩やかなものでした。しかし、1955年(昭和30年)12月の「高等学校学習指導要領」からは「試案」の文字が消え、1958年(昭和33年)10月からは「文部省告示」として官報に記載されるようになりました。法的拘束力を持ち、現場の教師は学習要領に従って教えなければならないとの、厳しいワクがはめられたのです。

また、1956年(昭和31年)、国会で与野党が対立し、参議院では警官隊が国会に入るという異常事態の中で、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が成立しました。教育委員会制度が変更され、「公選」ではなくなり、地方公共団体の長つまり都道府県知事や市町村長が任命し、議会の同意を得るという「任命制」に変わったのです。都道府県教育委員会の教育長は、文部省の承認が必要となり、結果として文部省の力が強まりました。

これらの変更は、日教組には、「戦前型の国家主義教育への『逆コース』」と受け止められました。日教組は支援する社会党や共産党の支援をえて、反対闘争を繰り広げましたが、自民党による強行採決に敗れたのです。   つづく

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2014年5月23日 (金)

「日本現代史」 43. 1945-2002年(4)…文部省対日教組…

海外ロングステイ先で歴史研究 115.として記述します。

☆ 「日本現代史」 43. 1945-2002年(4)…文部省対日教組…

文部省と日教組が真正面から衝突したといわれる出来事は、1956年(昭和31年)11月に、愛媛県から始まりました。「先生の通信簿」と呼ばれる「勤務評定」を実施すると愛媛県の教育委員会が発表したからです。県の財政が厳しく、教職員全員を一斉に定期昇給するだけの資金が不足するというのが、表向きの理由でした。「勤務不良」と認定する全体の三割の教職員の定期昇給を見送ろうとしたのです。

愛媛県教育委員会の方針に愛媛県教組は、激しく反発し、反対闘争を繰り広げました。当時は「校長」も組合員だったため、組合は勤務評定拒否を働きかけました。提出を求める教育委員会は、提出しなかった校長を処分しました。教育委員会は、校長を処分したばかりか、組合員に「組合脱退」を勧めました。この教育委員会による組合員への脱退工作で、組合員の脱退が相次ぎ、1958年(昭和33年)から1960年(昭和35年)までに、全組合員の七割に当たる6300人が脱退したのです。闘いは、教育委員会の勝利でした。

勤務評定は、その後文部省の指導のもと、1958年から1959年にかけて全国で実施されました。日教組はこれに反発し、デモ行進や一斉休暇闘争を行いましたが、都道府県の教育委員会に、組合員6万人が解雇・停職・賃金カットなどの処分を受けてしまいました。たとえば、1958年4月23日に行われた東京都教組による「一斉休暇闘争」では、東京都の全教師の98%に当たる35000人が参加しましたが、指導した都教組の幹部は、「違法スト指導容疑」で、次々に警視庁に逮捕されたといわれています。

1958年9月には、組合員の99%が参加した福岡県教組の一斉休暇闘争も実施されましたが、東京都同様、幹部が逮捕されてしまいました。結局は、全国レベルでも、敗れてしまったのです。神奈川県や長野県のように、教育委員会と教組が好関係を築き、新方式を採用したところもありましたが、1958年から実施された「勤務評定」は全国に定着しました。

つづく

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2014年5月26日 (月)

「日本現代史」 44. 1945-2002年(5)…文部省対日教組…

海外ロングステイ先で歴史研究 116.として記述します。

☆ 「日本現代史」 44. 1945-2002年(5)…文部省対日教組…

1950年(昭和25年)当時、「国旗を掲げ、国歌を斉唱すること」を求めた文部省に対し、日教組は反対していました。1958年(昭和33年)になると、文部省は日教組に対して攻勢に出ました。学習指導要領の改訂で、小学校一年生の音楽の教材に「君が代」を指定したのです。

次に文部省と日教組が対立したのは、「全国中学校一斉学力調査」をめぐって起こりました。1961年(昭和36年)から、文部省は中学二年生と三年生を対象に、英語・数学・国語・社会・理科の五教科について同じ日の同じ時間に、全国一斉に試験を実施しました。これに対し日教組は、各地の実情を無視して文部省が一方的に問題を作成することになるので「教育の国家統制を強める」・「生徒の選別や差別を強める」と反対しました。試験結果を公表しないはずが、関係者の知るところとなって、全国的に混乱が広がってしまいました。文部省は、1965年(昭和40年)に規模を縮小し、翌1966年に廃止に追い込まれました。教育改善に役立てるどころか、教育現場を混乱させることになった、文部省の敗北でした。

文部省と日教組は、「教科書検定」をめぐっても闘いました。1965年(昭和40年)、東京教育大学の家永 三郎教授が起こした「教科書検定は憲法違反である」との裁判を日教組が支援したからです。訴訟は第一次から第三次におよびました。東京地方裁判所、東京高等裁判所で家永教授の勝訴や敗訴の裁定が下りましたが、最高裁判所では「検定に行き過ぎがあったと一部の訴えは認められた」ものの、「違憲・違法の訴え」は斥けられました。教科書検定制度は合法的なものと認められたのは、一次訴訟から32年後の1997年(平成9年)でした。  つづく

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2014年5月27日 (火)

「日本現代史」 45. 1945-2002年(6)…文部省対日教組…

海外ロングステイ先で歴史研究 117.として記述します。

☆ 「日本現代史」 46. 1945-2002年(6)…文部省対日教組…

1950年代は、「君が代」を日本軍の侵略のシンボルとして日教組が反対していましたが、1977年(昭和52年)の学習指導要領改訂では、「国旗を掲揚し、国歌を斉唱させることが望ましい」に変わりました。さらに、1989年(平成元年)の改訂では、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するように指導するものとする」という表現に変わりました。

文部省と日教組は長年にわたり、対立を繰り返していましたが、1989年(平成元年)は「日教組の分裂」で転機を迎えました。日教組の内部では、「社会党系の主流派」と「共産党系の反主流派」があって、対立と妥協を繰り返してきましたが、共存できないまでに対立が深まりました。1989年に、労働組合の連合体である「連合」への加盟を巡って、反対する反主流派は、日教組から離脱して「全日本教職員組合(全教)」を結成しました。日教組は分裂したのです。

1994年社会党の村山 富市委員長が組織した社会党・自民党の連立内閣が成立すると、社会党は大胆な「方針変更」を行って、文部省との「協調路線」をとることになりました。組織内に共産党系の反主流派がいなくなったので、日教組も路線変更が容易になり、内閣同様に文部省との協調を決めました。日教組の組織率は年々減少していましたが、分裂後の1990年には組織率は36.9%、2000年には31.8%で総組合員数34万人余になってしまいました。   つづく

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2014年5月28日 (水)

「日本現代史」 46. 1945-2002年(7)…文部省対日教組…

海外ロングステイ先で歴史研究 118.として記述します。

☆ 「日本現代史」 46. 1945-2002年(7)…文部省対日教組…

日教組側に1989年(平成元年)に分裂が起こりましたが、同じ頃文部省にも変化が起きました。児童・生徒の校内暴力・いじめ・不登校などの問題が深刻になるにつれ、文部省の教育改革への取り組みが問われたからです。子どもたちの問題行動の背景には「学校が面白くない」という現実があり、「授業についていけない子」たちが、学校に魅力を感じなくなっているとの指摘もありました。

こんなことがないようにするためにも、従来の「詰め込み教育」を是正して、「ゆとり教育」にすべしという方針に変わりました。このゆとり教育は、皮肉にも長い間日教組が主張していたものと重なるものがあったのです。小・中学校は2002年4月から、高校は2003年4月から「学校五日制」が始まりましたが、池上さんの記述は、「授業時間の減少で、学力低下を懸念する声がある」ことで、記述が終っています。

池上さんは、「文部省対日教組」という構図から見るだけでは見落としてしまう論点もあるとして、評論家・堺屋 太一さんの著書から引用しています。「戦後多くのことが自由化、民主化されたが、こと教育に関する限り、文部省と教職員組合による全体主義体制が著しく強化された。父兄と生徒による学校選択の自由はまったくなく、学校格差の是正の美名によって強制入学制が強行されている。…没個性的画一化教育を行うことでは、文部省と日教組双方の意見は完全に一致している。」…と。

池上さんの著作には充分な記述がありませんが、次の二点を付け加えておきます。 (1)1964年をもって全員調査を中止していましたが、文部省から名称の変わった文部科学省は2007年(平成19年)から、「学力調査」を復活させました。 (2)「ゆとり教育」の採用で、学力の低下が著しいという現実に気づいた文部科学省は、小学校は2011年度・中学校は2012年度から・高校は2013年度から「脱ゆとり教育」を実施しています。

学力の低下は、国力の低下に繋がります。「ゆとり教育を採用」した責任問題は別として、「脱ゆとり教育」に戻ったのは、「正しい選択」と評価します。   つづく

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2014年5月29日 (木)

「日本現代史」 47. 1953-1973年(1)…高度経済成長…

海外ロングステイ先で歴史研究 119.として記述します。

☆ 「日本現代史」 47. 1953-1973年(1)…高度経済成長…

池上 彰著・「そうだったのか!日本現代史」第9章は、1953年(昭和28年)の東京・青山の青果店・紀ノ国屋が「スーパーマーケット」という「セルフ・サービス」を基本にした安売り店を開いた話から始まり、日本の高度成長時代の活況に焦点が当てられます。この章のテーマは、「高度経済成長 豊かな日本への歩み」です。

1950年(昭和25年)は、日本はまだ貧しい国でした。当時の一万田 尚登・日銀総裁が「日本で自動車工業を育成しようと努力することは無意味だ。今は国際分業の時代だ。米国で安くて良い車ができるのだから、自動車は米国に依存すればよいのではないか」と、談話を発表していたのです。

ところが、日本の自動車産業は、日銀総裁の意に反して大飛躍したのです。日本政府がとった「外国車の輸入制限と国産車育成の施策」が成功したのです。1955年(昭和30年)にはトヨタがトヨペット・クラウン、ニッサンがダットサン110、富士精密工業(後のプリンス自動車)新型プリンス、いすずが新型ヒルマンを発売しました。その二年後に米国に輸出されたトヨペット・クラウンが、米国のハイウエーでの高速走行で、技術的に難があったとの話がありましたが…。

スーパーマーケットに話を戻しますと、1957年(昭和32年)、大阪に「主婦の店・ダイエー」がオープンしました。その後大きく発展する「ダイエー」の一号店でした。同社の中内 功(いさお)社長が次々に各地に出店しました。それまでの対面販売が普通だった商店に比べると、店員の数が大幅に削減され、人件費の節約ができたのです。その分、商品価格を下げることで、人気を博しました。ほかにも各地にたくさんのスーパーマーケットができ、「価格決定の主導権」は、メーカーや問屋からスーパーマーケットに移るという「流通業界の秩序破壊」も生じました。   つづく

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2014年5月30日 (金)

「日本現代史」 48. 1953-1973年(2)…高度経済成長…

海外ロングステイ先で歴史研究 120.として記述します。

☆ 「日本現代史」 48. 1953-1973年(2)…高度経済成長…

1958年(昭和33年)、日清食品が即席ラーメン・「チキンラーメン」を発売しました。当時、家庭でお湯を注げばすぐに食べられるラーメンは、画期的な発明だったのです。湯をかけてフタをし、三分間じっと待つことは、「三分間待つのだぞ!」の言葉とともに、日本中に普及しました。食品会社が次々に即席ラーメンを開発して参入し、これは、日本の「国民食」になりました。即席ラーメンは、日本の高度成長を支えた戦士たちの「戦陣食」の役割を果たしたといわれています。

1960年(昭和35年)7月に池田 勇人自民党総裁が池田内閣を発足させましたが、同年11月の衆議院総選挙のスローガンに、「皆さんの所得を10年で2倍にします。私はウソを申しません」を掲げました。安保改定をめぐって日本中が騒然とした後、岸 信介内閣に変わって誕生した池田内閣は、日本国内の人心の安定をめざして、「所得倍増計画」を発表しました。この計画を理論的に支えたのが元大蔵省のエコノミスト下村 治で、「適切な経済政策をとれば、日本経済が飛躍的に発展する」と考えていたのです。それでも、1956年(昭和31年)の経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」から、4年経っていました。

所得を10年間で倍にするためには、年平均で7.2%成長する必要があります。この計画では、最初の3年間に年率9%の成長を設定し、10年間の平均伸び率を7.8%に設定していました。手始めに道路・港湾・下水などの公共施設に多額の資金を注ぎ込んで、経済発展の基盤を整備しました。

経済発展に必要な人材を養成するため、理工系の大学と学部を増やしました。また企業が経営規模を拡大するためには、その資金を銀行から借りなければならないので、国民に「貯蓄」を呼びかけました。政府が強気の経済成長を設定したことで、民間企業も安心して、「経済拡大策」をとって、生産を拡大しました。

政府のお墨付きを得て、労働組合も賃金の大幅引き上げを要求し、企業もその要求を満たしました。サラリーマンの所得も増えて、製品を買う経済的な余裕が生まれ、需要が急増した幸せな時代でした。   つづく

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