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2014年5月21日 (水)

「日本現代史」 41. 1945-2002年(2)…文部省対日教組…

海外ロングステイ先で歴史研究 113.として記述します。

☆ 「日本現代史」 41. 1945-2002年(2)…文部省対日教組…

1947年(昭和22年)に結成された「日教組」は、教育の民主化が進む中で、教育現場の教師の権利の確立と、民主的な教育の確保をめざしました。日中戦争から太平洋戦争にかけて、教師として多くの教え子を戦場に送り出した自らの責任を反省するところから運動をスタートさせたといわれています。

1951年(昭和26年)の日教組の大会で、「教え子を再び戦場に送るな!」をスローガンとして掲げ、これがその後の日教組の基本路線になったのです。平和路線を追求することになり、「安保反対」や「米軍基地反対運動」などにつながっていきました。保守勢力から見れば、「反米路戦」と映り、東西冷戦の中で、ソ連や中国の味方をしているように見られました。

日教組は翌1952年6月の大会で「教師の倫理綱領」を制定しました。ここに、「教師は労働者である」、「教師は団結する」という条文があったことから、文部省や保守勢力は、「日教組は階級闘争主義」と、警戒を強めました。この年に、日教組は「自らの主張を政治の場で実現」するために、独自の政治団体(「日本教職員政治連盟」のちの「日本民主教育政治連盟」)を結成しました。こうして、日教組対文部省の対立構造が形成されていったのです。

日教組はその後組織を拡大し、最盛期の1958年(昭和33年)には、組合員数が67万人に達しました。日教組は独自に「教育研究大会」を開くなど、組合の立場から教育内容の検討を進め、「自主カリキュラム」の編成運動まで展開したのです。

こうした教育内容の主張は、「文部省の権限を侵すもの」だと文部省は受け止めました。「教育内容は国家が責任を持つもの」であり、その担当が文部省だとの強い主張でした。戦後、米国が日本に導入した「住民主体」の考え方とは対立するものですが、文部省の方針は、大きく変わってゆきました。   つづく

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