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2014年5月 2日 (金)

「日本現代史」 30. 1953-1997年(5)…総資本対総労働…

海外ロングステイ先で歴史研究 102.として記述します。

☆ 「日本現代史」 30. 1953-1997年(5)…総資本対総労働…

1960年(昭和35年)7月20日の石炭積み出し施設(ホッパー)の攻防戦で、予想された三池労組と警官隊との激突は、中労委(中央労働委員会)の斡旋ですんでの所で流血の惨事は回避されました。労使双方から「白紙委任」を取り付けた中労委は、8月10日に最終的な斡旋案を発表しました。

「会社は指名解雇を取り消し、解雇該当者は自発退職する。自発退職した者は退職金以外に2万円を加給する。」というものでした。会社はこれを受諾し、炭労は9月になって受諾を決めたので、三池労組もこの方針をしぶしぶ受け入れたのです。結果として、指名された組合員は退職することになって、会社側の「人員削減方針」を認めることになり、三池労組の敗北となりました。退職者は、ほかの企業から再就職を拒否され、残った三池労組組合員も職場内での差別待遇に苦しんだといわれています。

その後も、三池労組から新労(第二組合)に移る組合員が増え、闘争が終った1961年には、三池労組は「少数派に転落」してしまいました。

1963年(昭和38年)11月9日に三池鉱業所・三川鉱の第一斜坑で、「炭塵爆発」が起こりました。死者458人、重軽傷者555人を出す戦後最大の炭鉱事故となりました。石炭を掘削すると、細かい石炭の粉が出て、空気中を漂います。これが石炭の塵(炭塵)ですが、炭塵が空気中に充満すると爆発する危険があることは、広く知られていたとのことです。

日頃から坑内をきちんと掃除するか、あるいは水を撒いて坑内を湿らせておけば、危険はなくなるといわれています。職場の安全を求めて、職場闘争を繰り広げてきた三池労組の組合員は、「労働組合の力が弱くなると、労働者の安全が脅かされると」ということが正しかったと主張しました。石炭から石油へのエネルギー革命は、その後も続きました。日本各地の炭鉱は次々と閉山に追い込まれたのです。そして、1997年3月、三池鉱山が閉山になりました。閉山のとき、三池労組の組合員は15人、新労の組合員は900人でした。

時代は変わり、今となっては、三池闘争のような労働運動は、存在しません。振り返ってみれば、三池闘争は産業構造の変化に翻弄された労働者の悲劇を物語るものです。その一方で、「仲間のクビを守るのが労働組合のつとめ」という原則を貫き、「働くものの尊厳」を守った価値は大きいとの評価もあります。

池上さんは、「第六章のその後」として、「派遣労働者の不安定な身分」を取上げ、「労働組合の力が弱まると、労働者の権利が奪われるという現実(労働規制の撤廃の進行)に危惧の念を表明していました。   つづく

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