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2014年5月 1日 (木)

「日本現代史」 29. 1953-1997年(4)…総資本対総労働…

海外ロングステイ先で歴史研究 101として記述します。

☆ 「日本現代史」 29. 1953-1997年(4)…総資本対総労働…

1960年(昭和35年)6月19日の安保条約の自然成立以降、総評の支援に力が入った「三池闘争」は、現地での闘いの焦点はホッパー(石炭積み出し施設)に絞られました。各炭鉱で掘られた石炭はホッパーに集められてから、石炭貨車に積んで出荷されるので、この施設を占拠すれば石炭の出荷は不可能になります。三池労組の組合員は、ホッパーの周囲に小屋をいくつも建てて、24時間警戒にあたりました。

会社は、組合員の占拠をやめさせることを求める「仮処分」を福岡地裁に申請しました。7月に、福岡地裁は会社の申請を認め、組合に占拠の解除を求めました。期限は7月21日でした。

7月17日、総評は「ホッパー死守」を掲げて10万人の総決起大会を開催しました。全国から労働組合員が駆けつけたのです。7月18日および7月19日の仮執行が阻止されたところで、裁判所は「警察の支援」を要請しました。組合側は、ホッパーの側に戦場さながらの塹壕まで掘って、守備隊2万人が守りを固め火炎瓶まで用意されました。

対する警官隊は、福岡県以外からの応援部隊4100人を加えて総勢1万人。装甲車や放水車、ヘリコプターまで用意しました。突入は、7月20日午前5時と決められました。武器を持つ組合員2万人対警官隊1万人の激突は、多くの死者がでることさえ予想されたのです。

1960年(昭和35年)7月19日に就任したばかりの池田 勇人内閣は、流血の惨事を避けようと努めました。石田 博英労相が事態の収拾に動きました。労使双方に対し、「中央労働委員会の斡旋」に応じるよう、働きかけたのです。委員会は、三井鉱山社長と炭労の委員長や総評議長の三人を呼んで、「申し入れ」を提示しました。申し入れとは、「組合はピケを解き、会社は仮処分の申請を取り下げること。」でした。とにかく、「無条件で斡旋案を受け入れよ」というものでした。「申し入れ拒否」の態度をとっていた三井鉱山社長は、石田労相が説得したのです。

午前4時に、ホッパーに向かっていた警官隊を乗せた車は突然ストップしてUターンし、流血の事態は避けられたのです。   つづく

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