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2014年4月18日 (金)

「日本現代史」 21. 1951-2001年(1)…安保条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 93.として記述します。

☆ 「日本現代史」 21. 1951-2001年(1)…安保条約…

池上 彰著・「そうだったのか!日本現代史」第5章は、1951年(昭和26年)9月に承認され、1952年4月に発効した「サンフランシスコ条約」と同時に署名された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(今後「安保条約」と表現します)」から始まりました。第5章の表題は、「安保条約に日本が揺れた」です。

ところが、この1952年に発効した安保条約は、日・米が対等の関係ではなかったのです。第一条で米軍の駐留を日本が認めることを明記する一方で、米軍が日本を防衛する義務があると書かれていなかったのです。また、日本国内で内乱が起きた場合、米軍が出動できることは書かれていましたが、日本国内問題に米軍が介入する余地がありました、

さらに、条約の期限も、解消方法についても何ら決められておらず、日本政府には、対等ではないという思いが強かったといわれています。安保条約が結ばれた当時の世界情勢は、米・ソの対立から東西冷戦となり、米ソの直接対決こそないものの、世界各地で、紛争を引き起こしていたのです。

1956年には、エジプトがスエズ運河の国有化を宣言したことで、英・仏軍が軍事介入する事態が発生しました。同じ年、「ハンガリー動乱」も起きていました。ソ連支配に反対するハンガリー国内の動きを、ソ連軍の戦車が押しつぶしたのです。多くの日本国民にとっても、「戦争に巻き込まれる恐れがある」と感じる時代だったのです。

1957年2月に岸 信介自民党総裁が首相に就任しましたが、彼は最初に「安保条約の改定」をめざしました。日本が完全に独立した国家になるために、安保条約を改定して、日・米が対等のものにすべきだと考えたからです。対等とはいっても、日本の憲法の規定から、米国本土が攻撃された場合でも、日本の自衛隊が米国を支援できないのは、明白でしたが…。1957年6月に岸首相は訪米して、ダレス国務長官と、細かい打ち合わせを行いました。   つづく

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2014年4月21日 (月)

「日本現代史」 22. 1951-2001年(2)…安保条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 94.として記述します。

☆ 「日本現代史」 22. 1951-2001年(2)…安保条約…

1957年(昭和32年)2月に首相に就任した岸 信介自民党総裁は、1951年に結ばれた古い安保条約を、完全独立した日本に相応しいものに変えたいと「安保条約改定」をめざしました。自ら訪米し、交渉を続け、米国の合意を取り付けました。そして、1960年(昭和35年)1月19日に、再び訪米し、「新しい安保条約」に、ワシントンで調印しました。正式名称は、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(今後『新安保条約』と表現します)」で、先の条約との大きな違いは、「相互協力」という言葉が新たに加わったことです。

新安保条約には、日本が侵略された場合の「米軍の支援義務」を規定しました。従来通り日本からの米軍への「基地提供」を決め、日本と日本にある米軍基地に対する武力攻撃に対しては、日米両国が共同で対処することも明記されました。

日本に駐留する米軍は「極東」での平和と安全を確保するために、日本の基地を使用できることになりましたが、「極東の定義」は、曖昧なままでした。独立国家・日本が主張し、米国に認めさせたのは、恣意のまま米軍が行動するのを規制する「事前協議」条項を入れたことでした。在日米軍の配置・装備の重要な変更、日本から行われる戦闘作戦行動のために日本国内の基地を使う場合は、日本政府との事前協議が義務付けられました。

この岸内閣の新安保条約締結に向かう動きを見て、条約調印前の1959年3月に、社会党・共産党や労働組合などでつくる「安保改定阻止国民会議」が結成されました。ところがこの運動に対して、当時の国民の関心は低く、反対運動は、盛り上がりませんでした。     

岸首相が米国で署名した新安保条約は、国会での批准が必要ですので、衆議院に「安保特別委員会」が設置されました。社会党議員の政府追及が激しく、審議は長引きました。そこで、1960年5月19日の深夜、与党・自由党は「強行採決」に踏み切りました。さらに、清瀬 一郎衆議院議長は、議員の揉みあいを制するため、「警官隊を国会へ導入」したのです。そして、5月20日の未明に清瀬議長は本会議を再開し、野党議員ばかりでなく自民党の反主流派も欠席のまま「安保条約承認」を与党は強行したのです。   つづく

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2014年4月22日 (火)

「日本現代史」 23. 1951-2001年(3)…安保条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 95.として記述します。

☆ 「日本現代史」 23. 1951-2001年(3)…安保条約…

1960年(昭和35年)の5月20日未明の、国会に警官隊を導入してまでの「安保条約強行採決」には、岸首相の思惑があったのです。衆議院と参議院の条約批准を終えて、日米の固い絆を確認したいと、6月19日の「米国のアイゼンハワー大統領来日」を決めていたのです。もし衆議院で採決されれば、参議院で採決されなくても、「30日後には自然成立」を計算していたはずです。そのデッド・ラインが強行採決した5月19日だったのです。

強行採決の直後から、岸首相の思惑に反して、「安保反対運動」は、急速に盛り上がりました。警官隊を導入し、野党議員を排除し、深夜に与党議員だけで採決を強行したことで「こんなことを許したら、日本の民主主義は崩壊する」との声が高まりました。

6月19日のアイゼンハワー大統領の訪日スケジュールを日本政府と打ち合わせるため、米大統領報道担当補佐官格のハガティー秘書官が6月10日に羽田空港に到着しました。米大統領の来日に反対する反対派(労働組合員や全学連反主流派〔共産党系〕など、約2万5千人)が、ハガティーが空港から都心に向かう沿道にデモ隊を繰り出していました。ハガティー一行は、空港を出たとたんにデモ隊に囲まれて動けなくなりました。駆けつけた警官隊が確保したスペースに米・海兵隊のヘリコプターが着陸し、漸く彼らを救出したのです。

このいわゆる「ハガティー事件」は、日本政府に衝撃を与えました。秘書官の来日でさえ、この混乱になるのなら、大統領の来日時のさらなる混乱を危惧し始めました。日本政府にとって、事態はさらに悪化しました。強行採決に危機感を抱いた市民がデモ行進に参加するようになって、連日国会を取り巻いたからです。デモ行進を組織する「安保阻止国民会議」は、議員面会所に嘆願書を置くという整然とした行動をとっていました。ところが、さらに大胆な行動をとらなければ、岸内閣を追い込んで安保条約を粉砕することはできないと考えるグループがいました。反共産党系の「全学連主流派」です。彼らは6月15日の「国会突入」を計画したのです。

国会の敷地内を防備していた警視庁の機動隊に対し、約8千人の全学連部隊(主として明大・東大と中大)が国会の南通用門から突入したのです。学生たちは、角材やワイヤー・ロープの封鎖を破壊し、機動隊の大型輸送車2台に火をつけました。東大の学生を中心とする700人が敷地内に突入すると、それまで投石を受けながら待機していた警視庁の第四機動隊の隊員が警棒を抜いて学生たちの排除にかかりました。機動隊員に殴られて血だらけになった学生は逮捕されたり、通用門の外に押し出されました。この乱闘の中で、22歳の女子・東大生の樺 美智子さんが亡くなったのです。「女子学生の死」は、日本国中に衝撃をあたえました。翌日、全国のほとんどの大学で授業が放棄され、抗議集会が開かれました。いてもたってもいられなくなった学生が、全国から夜汽車を乗り継いで東京に向かったのです。   つづく

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2014年4月23日 (水)

「日本現代史」 24. 1951-2001年(4)…安保条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 96.として記述します。

☆ 「日本現代史」 24. 1951-2001年(4)…安保条約…

1960年(昭和35年)6月15日のデモでの「女子学生の死」は、デモ隊の勢いをさらに盛り上げることになりました。安保反対闘争に政府も浮き足立ちはじめます。岸総理はデモ鎮圧のため、「自衛隊の治安出動」を検討し、東京の市ヶ谷駐屯地に2万人の自衛隊員を出動準備させました。首相は、赤城 宗徳防衛庁長官に自衛隊の出動を促しました。首相の督促は、「出動命令」ではなかったことで、赤城長官は「拒否」しました。同胞に死者が出る事態を避けたかったためといわれています。

6月16日に、日本政府は、アイゼンハワー大統領に「訪日延期」を要請しました。大統領の安全を保障できない状態だったのです。

デモ隊が首相官邸を取り巻いて、「安保反対!岸を倒せ!」と叫ぶ中、それでも安保条約は6月19日の午前0時に自然承認となりました。6月22日に、日米で批准書が交換された直後、岸首相は「混乱の責任をとる」と、辞意を表明しました。池上さんは、この頃の様子を描写した堺屋 太一さんの書籍から引用しています。

この時、本当に人々が求めていたのは、「アンポ反対」ではなく、「岸を倒せ」だった。…と。

当時、日本国民が問題視したのは、日米安保条約ではなく、岸首相が持っていた戦前からの経歴とそれに潜んだ官僚的体質だったようです。

5月19日の流血惨事があった翌々日5月21日の朝刊一面で、朝日、産経、東京、東京タイムス、日本経済、読売、毎日の新聞7社が「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を掲載しました。5月19日の安保強行採決以降、新聞各紙は岸内閣を厳しく批判してきました。この新聞の論調に賛同して、デモに参加した人も多かったのです。ところが、再度6月17日付に掲載された「新聞七社共同宣言」は、突然「よってきたるゆえんを別として」「社会党や民社党は国会に戻れ」と論調を変えました。多くの読者は違和感を持つところとなり、マッチ・ポンプ現象を生んだ「報道と論説のあり方」が、論議を呼びました。   つづく

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2014年4月24日 (木)

「日本現代史」 25. 1951-2001年(5)…安保条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 97.として記述します。

☆ 「日本現代史」 25. 1951-2001年(5)…安保条約…

1960年(昭和35年)6月18日に安保条約が自然成立し、岸内閣が退陣すると、日本は「政治の季節」から「経済の季節」に大きく変わりました。1960年7月に就任した池田 勇人首相は、「所得倍増論」を掲げて、高度経済成長路線をひた走りました。安保条約のもと、日本は米軍を駐留させることで、日本独自の防衛費に多額の資金を使う必要がなくなり、経済成長のために国家予算をつぎ込むことが可能になったのです。

安保条約に賛成した保守陣営は、「戦後日本の平和は安保のお蔭」といい、安保に反対した革新陣営は「安保反対勢力が歯止めになって、日本の平和が保たれた」といいます。米国は時として、アジア各国に、「日米安保で、米軍が日本に駐留することで、日本が強大な軍事国家になるのを防いでいる。」とも説明しているようです。

時代は下って1996年4月、来日した米国のクリントン大統領と橋本 龍太郎首相は、「日米安全保障共同宣言」を発表しました。この中で、「アジア太平洋地域」での有事の際に、日米両国が協力することが謳われました。安保条約では、協力する地域は「極東」だったのが、この宣言では「アジア太平洋地域」に拡大されています。新しい定義では、中東や西アジア地域まで、含められそうです。「日本を守るために日本に駐留する」と思われた米軍は、実はアメリカの世界戦略にもとづいて、中東までの広い範囲に出動するために駐留しているのです。

1999年5月に、「日米防衛協力のためのガイドライン関連法案」が成立しました。その中心は、「周辺事態法」です。この法律は、「日本の周辺の特定の地域」を指すのではなく、「周辺事態とは地理的概念ではなく、事態の性質に着目したもの」という説明を政府はしています。日本の平和と安全に重要な影響を与えることが起きたら、そこがどこであろうと、米軍を後方から支援する、というものだそうです。

2001年9月に米国で発生した同時多発テロに関して、「テロ対策特別措置法」が2001年10月に成立しました。自衛隊は、米国ばかりでなく、「テロと戦う国」の軍隊への後方支援が目的なら、インド洋にまで出動できることになりました。安保条約の意味は、明らかに変質してきています。

池上さんは、「第五章のその後」の中で、2008年9月に米軍横須賀基地を母港とする空母が、ディーゼル・エンジンの「キティホーク」から、原子力空母「ジョージ・ワシントン」に交代したと付記しています。米軍は、近年ライバルとする中国の軍備増強が著しいので、「太平洋での覇権」の維持に力を注いでいるとのことです。   つづく

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2014年4月25日 (金)

「日本現代史」 26. 1953-1997年(1)…総資本対総労働…

海外ロングステイ先で歴史研究 98.として記述します。

☆ 「日本現代史」 26. 1953-1997年(1)…総資本対総労働…

池上 彰著・「そうだったのか!日本現代史」第六章は、1953年(昭和28年)の「日産争議」や1954年の「三井鉱山・三池争議」から始まりました。この章の表題は、「総資本対総労働の戦い」です。

労働組合運動が盛んだった1953年(昭和28年)に、日産自動車の当時の総評系・組合が「同一労働・同一賃金」などを柱とする賃上げ闘争を5月に開始し、100日間におよぶ労働争議になりました。「日産53年争議」と呼ばれるこの闘争は、9月21日に終結しましたが、会社側の勝利に終りました。

1953年8月、三井鉱山は合理化を進めるとして、全国六つの炭鉱で、5738人(その中の2071人は三池鉱業所)の退職者を募集しました。退職者が人数に満たない場合は、退職を勧告し、応じない者は解雇するというものでした。全国三井炭鉱労働組合連合会(三鉱連)は、反対闘争に入りました。希望退職は少数にとどまり、会社側は2700人を解雇したのです。炭鉱の現場のほか、事務部門の組合までがストに入り、会社は大打撃を受けました。そこで、会社側は11月に「解雇通告」を撤回したのです。労働組合側の勝利に終わりましたが、「英雄なき113日の闘い」と呼ばれたそうです。これ以降、三鉱連の中の「三池労組」が、戦闘的な組合に生まれ変わりました。

三池労組は社会党左派系指導者・九州大学の向坂 逸郎教授を中心とする学者グループを呼んで勉強会を開催しながら、「理論武装」にも力を入れました。この三池労組の存在は、三池鉱山のみならず、日本の産業界にとっても「恐怖」だったようです。1950年(昭和25年)7月に「総評(日本労働組合総評議会)」は、GHQの保護の下、右派の自由労連系の組合として370万人の組合員を持つ大組織として誕生しました。ところが、翌年の3月には、その方針を転換させ、「戦闘的な政治方針」を持つ組織に変わってしまったのです。1955年(昭和30年)は、左右社会党が統一され、全学連の活動も活発化していました。日本の産業界は、危機感を持ち、「社会主義革命」が起きるのを警戒していました。このため日経連(日本経営者団体)などは、三池労組つぶしのために、三井鉱山の経営陣を全面的に支援しました。

三井鉱山を応援する経営者、三池労組を支援する労働者、という「総資本」対「総労働」の全面対決となったのです。   つづく

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2014年4月28日 (月)

「日本現代史」 27. 1953-1997年(2)…総資本対総労働…

海外ロングステイ先で歴史研究 99.として記述します。

☆ 「日本現代史」 27. 1953-1997年(2)…総資本対総労働…

日本の産業界は、1958年(昭和33年)頃から発電用の燃料として、石炭よりも石油の方が安くなる「エネルギー革命」の時代に入りました。エネルギー革命で、苦しい立場に立った石炭産業は、生き残りをかけて、大規模な合理化・人員削減に取り組みました。1959年(昭和34年)1月、三井鉱山は第一次合理化として6000人の人員整理を提案し、4月に希望退職1324人で妥結しました。同じ年の8月に、三井鉱山は4580人(その中2210人が三池炭鉱)の人員整理を目論む第二次の合理化案を労働組合に提案しました。三井鉱山の経営陣は、何としても「三池労組」の活動家を職場から排除する強い意向があったのです。

三井鉱山の労働組合の連合体(三鉱連)の中、三池労組以外の5つの炭鉱の労組は、徹底的な反対ではなく、妥協することで有利な条件を引き出そうと考えていました。徹底抗戦を主張する三池労組とは、意思統一ができませんでした。三池鉱山では、退職希望者が募集人員の2210人に達しません。そこで、会社側は三池労組の活動家600人を含む1492名に退職勧告し、これに応じない1202人が解雇されました。

1960年(昭和35年)1月25日に、会社はロックアウト(バリケードを築いて組合員を会社内への立ち入りを禁じる)に出ました。同じ日、三池労組は、「無期限ストライキ」に入りました。石炭大手18社の社長会は、三井鉱山だけの問題ではないとして、各社が「三井鉱山支援」を決めました。組合員は、「去るも地獄、残るも地獄」のスローガンを掲げ、闘争に負けたら将来はないと組合員の主婦たちや地域の商店街まで巻き込んだ反対闘争を続けました。大手炭鉱労働者が参加する「炭労」は、会員一人当たり毎月600円のカンパをしたり、総評からの支援金6億円などで、生活を支えたようです。

日本一戦闘的といわれた組合も、闘争が長引くにつれ、亀裂が生じました。2月になって、三池労組の方針に対する内部批判が表面化しました。「階級的闘争至上主義」との声をあげ、ストライキ中止を求めました。組合方針に対する賛成派と反対派の調整はつかず、3月17日に「労働組合分裂」となりました。1万5千人の組合員の中、3065人が第二組合(新労働)を立ち上げ、その後の10日間で、4800人以上に拡大しました。   つづく

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2014年4月30日 (水)

「日本現代史」 28. 1953-1997年(3)…総資本対総労働…

海外ロングステイ先で歴史研究 100.として記述します。

☆ 「日本現代史」 28. 1953-1997年(3)…総資本対総労働…

1960年(昭和35年)1月25日に三井鉱山は、組合員を会社の敷地に立ち入らせないロックアウトに出ましたが、3月17日の三池炭鉱労組の分裂で生まれた第二組合員(新労)に対してはロックアウトを解除しました。新労の組合員だけで業務を再開しようとしたのです。三池労組は、これを拒もうと三川鉱の正門前でピケを張りました。新労の組合員は、実力突破を試みました。

3月28日、新労の組合員1600人が、ピケを張る三池労組の組合員に棒で襲い掛かりました。構内に入った新労の組合員約400人に対し、三池労組も反撃し、市街戦の様相になりました。双方合わせて200人以上が重軽傷を負いました。

流血の惨事に、全国の人々が驚き、新労を攻撃した三池労組に対して厳しい批判を浴びせました。ところが翌日、事態は一変したのです。新労の組合員が構内に入るのを阻止しようとピケを張っていた三池労組組合員を、地元暴力団200人が襲撃したのです。三池労組の組合員一名が、暴力団員の短刀で刺殺され、世論は一転して「三池労組」に味方したのです。この事件をきっかけに、「三池闘争」は一気に全国闘争に広がりました。

総評は、安保闘争と三池闘争を結合して戦う方針を打ち出しました。全国から応援に駆けつけた総評の組合員は、延べ30万人に達したといわれています。三池闘争のさなかの6月19日に、国会に突入した全学連の女子学生が死亡しました。そして、安保条約は6月19日、自然成立。総評は、三池闘争にさらなる支援をと力を入れるようになりました。    つづく

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