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2014年4月30日 (水)

「日本現代史」 28. 1953-1997年(3)…総資本対総労働…

海外ロングステイ先で歴史研究 100.として記述します。

☆ 「日本現代史」 28. 1953-1997年(3)…総資本対総労働…

1960年(昭和35年)1月25日に三井鉱山は、組合員を会社の敷地に立ち入らせないロックアウトに出ましたが、3月17日の三池炭鉱労組の分裂で生まれた第二組合員(新労)に対してはロックアウトを解除しました。新労の組合員だけで業務を再開しようとしたのです。三池労組は、これを拒もうと三川鉱の正門前でピケを張りました。新労の組合員は、実力突破を試みました。

3月28日、新労の組合員1600人が、ピケを張る三池労組の組合員に棒で襲い掛かりました。構内に入った新労の組合員約400人に対し、三池労組も反撃し、市街戦の様相になりました。双方合わせて200人以上が重軽傷を負いました。

流血の惨事に、全国の人々が驚き、新労を攻撃した三池労組に対して厳しい批判を浴びせました。ところが翌日、事態は一変したのです。新労の組合員が構内に入るのを阻止しようとピケを張っていた三池労組組合員を、地元暴力団200人が襲撃したのです。三池労組の組合員一名が、暴力団員の短刀で刺殺され、世論は一転して「三池労組」に味方したのです。この事件をきっかけに、「三池闘争」は一気に全国闘争に広がりました。

総評は、安保闘争と三池闘争を結合して戦う方針を打ち出しました。全国から応援に駆けつけた総評の組合員は、延べ30万人に達したといわれています。三池闘争のさなかの6月19日に、国会に突入した全学連の女子学生が死亡しました。そして、安保条約は6月19日、自然成立。総評は、三池闘争にさらなる支援をと力を入れるようになりました。    つづく

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