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2014年4月28日 (月)

「日本現代史」 27. 1953-1997年(2)…総資本対総労働…

海外ロングステイ先で歴史研究 99.として記述します。

☆ 「日本現代史」 27. 1953-1997年(2)…総資本対総労働…

日本の産業界は、1958年(昭和33年)頃から発電用の燃料として、石炭よりも石油の方が安くなる「エネルギー革命」の時代に入りました。エネルギー革命で、苦しい立場に立った石炭産業は、生き残りをかけて、大規模な合理化・人員削減に取り組みました。1959年(昭和34年)1月、三井鉱山は第一次合理化として6000人の人員整理を提案し、4月に希望退職1324人で妥結しました。同じ年の8月に、三井鉱山は4580人(その中2210人が三池炭鉱)の人員整理を目論む第二次の合理化案を労働組合に提案しました。三井鉱山の経営陣は、何としても「三池労組」の活動家を職場から排除する強い意向があったのです。

三井鉱山の労働組合の連合体(三鉱連)の中、三池労組以外の5つの炭鉱の労組は、徹底的な反対ではなく、妥協することで有利な条件を引き出そうと考えていました。徹底抗戦を主張する三池労組とは、意思統一ができませんでした。三池鉱山では、退職希望者が募集人員の2210人に達しません。そこで、会社側は三池労組の活動家600人を含む1492名に退職勧告し、これに応じない1202人が解雇されました。

1960年(昭和35年)1月25日に、会社はロックアウト(バリケードを築いて組合員を会社内への立ち入りを禁じる)に出ました。同じ日、三池労組は、「無期限ストライキ」に入りました。石炭大手18社の社長会は、三井鉱山だけの問題ではないとして、各社が「三井鉱山支援」を決めました。組合員は、「去るも地獄、残るも地獄」のスローガンを掲げ、闘争に負けたら将来はないと組合員の主婦たちや地域の商店街まで巻き込んだ反対闘争を続けました。大手炭鉱労働者が参加する「炭労」は、会員一人当たり毎月600円のカンパをしたり、総評からの支援金6億円などで、生活を支えたようです。

日本一戦闘的といわれた組合も、闘争が長引くにつれ、亀裂が生じました。2月になって、三池労組の方針に対する内部批判が表面化しました。「階級的闘争至上主義」との声をあげ、ストライキ中止を求めました。組合方針に対する賛成派と反対派の調整はつかず、3月17日に「労働組合分裂」となりました。1万5千人の組合員の中、3065人が第二組合(新労働)を立ち上げ、その後の10日間で、4800人以上に拡大しました。   つづく

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