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2014年4月25日 (金)

「日本現代史」 26. 1953-1997年(1)…総資本対総労働…

海外ロングステイ先で歴史研究 98.として記述します。

☆ 「日本現代史」 26. 1953-1997年(1)…総資本対総労働…

池上 彰著・「そうだったのか!日本現代史」第六章は、1953年(昭和28年)の「日産争議」や1954年の「三井鉱山・三池争議」から始まりました。この章の表題は、「総資本対総労働の戦い」です。

労働組合運動が盛んだった1953年(昭和28年)に、日産自動車の当時の総評系・組合が「同一労働・同一賃金」などを柱とする賃上げ闘争を5月に開始し、100日間におよぶ労働争議になりました。「日産53年争議」と呼ばれるこの闘争は、9月21日に終結しましたが、会社側の勝利に終りました。

1953年8月、三井鉱山は合理化を進めるとして、全国六つの炭鉱で、5738人(その中の2071人は三池鉱業所)の退職者を募集しました。退職者が人数に満たない場合は、退職を勧告し、応じない者は解雇するというものでした。全国三井炭鉱労働組合連合会(三鉱連)は、反対闘争に入りました。希望退職は少数にとどまり、会社側は2700人を解雇したのです。炭鉱の現場のほか、事務部門の組合までがストに入り、会社は大打撃を受けました。そこで、会社側は11月に「解雇通告」を撤回したのです。労働組合側の勝利に終わりましたが、「英雄なき113日の闘い」と呼ばれたそうです。これ以降、三鉱連の中の「三池労組」が、戦闘的な組合に生まれ変わりました。

三池労組は社会党左派系指導者・九州大学の向坂 逸郎教授を中心とする学者グループを呼んで勉強会を開催しながら、「理論武装」にも力を入れました。この三池労組の存在は、三池鉱山のみならず、日本の産業界にとっても「恐怖」だったようです。1950年(昭和25年)7月に「総評(日本労働組合総評議会)」は、GHQの保護の下、右派の自由労連系の組合として370万人の組合員を持つ大組織として誕生しました。ところが、翌年の3月には、その方針を転換させ、「戦闘的な政治方針」を持つ組織に変わってしまったのです。1955年(昭和30年)は、左右社会党が統一され、全学連の活動も活発化していました。日本の産業界は、危機感を持ち、「社会主義革命」が起きるのを警戒していました。このため日経連(日本経営者団体)などは、三池労組つぶしのために、三井鉱山の経営陣を全面的に支援しました。

三井鉱山を応援する経営者、三池労組を支援する労働者、という「総資本」対「総労働」の全面対決となったのです。   つづく

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