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2014年4月23日 (水)

「日本現代史」 24. 1951-2001年(4)…安保条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 96.として記述します。

☆ 「日本現代史」 24. 1951-2001年(4)…安保条約…

1960年(昭和35年)6月15日のデモでの「女子学生の死」は、デモ隊の勢いをさらに盛り上げることになりました。安保反対闘争に政府も浮き足立ちはじめます。岸総理はデモ鎮圧のため、「自衛隊の治安出動」を検討し、東京の市ヶ谷駐屯地に2万人の自衛隊員を出動準備させました。首相は、赤城 宗徳防衛庁長官に自衛隊の出動を促しました。首相の督促は、「出動命令」ではなかったことで、赤城長官は「拒否」しました。同胞に死者が出る事態を避けたかったためといわれています。

6月16日に、日本政府は、アイゼンハワー大統領に「訪日延期」を要請しました。大統領の安全を保障できない状態だったのです。

デモ隊が首相官邸を取り巻いて、「安保反対!岸を倒せ!」と叫ぶ中、それでも安保条約は6月19日の午前0時に自然承認となりました。6月22日に、日米で批准書が交換された直後、岸首相は「混乱の責任をとる」と、辞意を表明しました。池上さんは、この頃の様子を描写した堺屋 太一さんの書籍から引用しています。

この時、本当に人々が求めていたのは、「アンポ反対」ではなく、「岸を倒せ」だった。…と。

当時、日本国民が問題視したのは、日米安保条約ではなく、岸首相が持っていた戦前からの経歴とそれに潜んだ官僚的体質だったようです。

5月19日の流血惨事があった翌々日5月21日の朝刊一面で、朝日、産経、東京、東京タイムス、日本経済、読売、毎日の新聞7社が「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を掲載しました。5月19日の安保強行採決以降、新聞各紙は岸内閣を厳しく批判してきました。この新聞の論調に賛同して、デモに参加した人も多かったのです。ところが、再度6月17日付に掲載された「新聞七社共同宣言」は、突然「よってきたるゆえんを別として」「社会党や民社党は国会に戻れ」と論調を変えました。多くの読者は違和感を持つところとなり、マッチ・ポンプ現象を生んだ「報道と論説のあり方」が、論議を呼びました。   つづく

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