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2014年4月22日 (火)

「日本現代史」 23. 1951-2001年(3)…安保条約…

海外ロングステイ先で歴史研究 95.として記述します。

☆ 「日本現代史」 23. 1951-2001年(3)…安保条約…

1960年(昭和35年)の5月20日未明の、国会に警官隊を導入してまでの「安保条約強行採決」には、岸首相の思惑があったのです。衆議院と参議院の条約批准を終えて、日米の固い絆を確認したいと、6月19日の「米国のアイゼンハワー大統領来日」を決めていたのです。もし衆議院で採決されれば、参議院で採決されなくても、「30日後には自然成立」を計算していたはずです。そのデッド・ラインが強行採決した5月19日だったのです。

強行採決の直後から、岸首相の思惑に反して、「安保反対運動」は、急速に盛り上がりました。警官隊を導入し、野党議員を排除し、深夜に与党議員だけで採決を強行したことで「こんなことを許したら、日本の民主主義は崩壊する」との声が高まりました。

6月19日のアイゼンハワー大統領の訪日スケジュールを日本政府と打ち合わせるため、米大統領報道担当補佐官格のハガティー秘書官が6月10日に羽田空港に到着しました。米大統領の来日に反対する反対派(労働組合員や全学連反主流派〔共産党系〕など、約2万5千人)が、ハガティーが空港から都心に向かう沿道にデモ隊を繰り出していました。ハガティー一行は、空港を出たとたんにデモ隊に囲まれて動けなくなりました。駆けつけた警官隊が確保したスペースに米・海兵隊のヘリコプターが着陸し、漸く彼らを救出したのです。

このいわゆる「ハガティー事件」は、日本政府に衝撃を与えました。秘書官の来日でさえ、この混乱になるのなら、大統領の来日時のさらなる混乱を危惧し始めました。日本政府にとって、事態はさらに悪化しました。強行採決に危機感を抱いた市民がデモ行進に参加するようになって、連日国会を取り巻いたからです。デモ行進を組織する「安保阻止国民会議」は、議員面会所に嘆願書を置くという整然とした行動をとっていました。ところが、さらに大胆な行動をとらなければ、岸内閣を追い込んで安保条約を粉砕することはできないと考えるグループがいました。反共産党系の「全学連主流派」です。彼らは6月15日の「国会突入」を計画したのです。

国会の敷地内を防備していた警視庁の機動隊に対し、約8千人の全学連部隊(主として明大・東大と中大)が国会の南通用門から突入したのです。学生たちは、角材やワイヤー・ロープの封鎖を破壊し、機動隊の大型輸送車2台に火をつけました。東大の学生を中心とする700人が敷地内に突入すると、それまで投石を受けながら待機していた警視庁の第四機動隊の隊員が警棒を抜いて学生たちの排除にかかりました。機動隊員に殴られて血だらけになった学生は逮捕されたり、通用門の外に押し出されました。この乱闘の中で、22歳の女子・東大生の樺 美智子さんが亡くなったのです。「女子学生の死」は、日本国中に衝撃をあたえました。翌日、全国のほとんどの大学で授業が放棄され、抗議集会が開かれました。いてもたってもいられなくなった学生が、全国から夜汽車を乗り継いで東京に向かったのです。   つづく

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